猫と遊ぶ


「試験ある間、部活できなくてヒマだからバスケしないスか?」

そんな誘いのメールが青峰のもとに届いたのは、つい昨晩のことだった。
黄瀬というのは大変に面倒な生き物で、青峰が気まぐれに「メシおごれ」だの「いつものストバス場来い」だの言いだせば光の速さですっ飛んでくる。
けれど彼も一応は売れっ子のモデルなわけで、仕事の量をだいぶ抑えているとはいえそうそう青峰と予定が合うわけもなく、「ゴメン今日は無理なんス」なんて、洪水でも起こるんじゃないかというくらい汗や泣き顔の絵文字まみれのメールが返ってくることもしばしばだった。
青峰は怒るでもなく気分を損ねた風でもなく、普通に「あっそ」と答える。
ならば火神でもからかってやろうかとか、テツとマジバでもいいなとか、いっそ家に帰ってのんびり寝るかとか、何ならさつきと買い物……はちょっとご免だなとか、いくらでも代案はある。
なのに黄瀬は毎回、まるでこの世の終わりかのように「また誘って今度は絶対予定あけとくから」「ホントごめんね青峰っち」と詫びる。あまりにもしつこいので、だんだん本気でフラれたような気分になるからやめろと怒ったところ、余計落ち込んでしまって手が付けられなかった。

(めんどくせーヤツだよ)

今はそんなすれ違いが何度か続いたあと、ようやくタイミングが合ったので休日二人で朝から待ち合わせて、バスケ・昼ご飯・バスケ・おやつ・バスケ……と散々ボールを追いかけて過ごしたところだ。
黄瀬は飲み物を買ってくるとコートを出て行き、青峰はベンチに座って夕暮れの空を仰いでいる。
風は冷たく、いくら汗を吸った服を着替えて厚いアウターを着込んでいても、体の中にかろうじて留まっていた温もりの残滓はみるみるうちに奪われてゆく。
炭酸飲みたいとは言ったが、このままでは凍えてしまいそうだな――と思ったところで、不意に後ろからおかしなだみ声が聞こえてきた。

「?」

ふと青峰が視線を落とすと、足元にどすん、鈍い衝撃。
そのままぐりぐり何かを押し付けられる。
やわらかそうな毛並みに長い尻尾、小さい三角の耳、白地に茶トラ模様の猫だった。
青峰は生き物が好きだ。
特にセミだのザリガニだのカブトムシだの、つやつやしてたり羽や角やハサミのあるやつがカッコ良くて好きだが、動物なら大体なんでも好きだ。
なので脚に絡んできた猫に、思わず頬を緩め「なんだオマエ」などと声をかけてしまった。しかもそのあと「なーお」という鳴き真似までつけて。
猫はそれで「こいつイケるな」と思ったのか、うぁん、と短く頷くような声を上げ、軽やかにベンチに飛び乗ると大胆にも青峰の膝に手をかけて来た。

「おっ。首輪してんじゃん。飼い猫か。どーりでなつっこいはずだぜ」

独り喋る青峰をよそに、赤い首輪をはめた猫は腿のあたりで両手を何度か踏みしめつつ、あがろうかどうしようかとでもいう風に鼻をひくつかせ――最終的には乗り上げて、膝やら腿やらをかなりの力でのしのし圧迫しながら三回ほどまわった挙句、堂々と青峰の股の間にとぐろを巻いた。

「マジか」

さすがの青峰もそう呟く。
そろりと触れてみると、かわいらしい耳が水でも弾くかのようにぷるぷると振れたが、それっきりだった。あとはなすがままのようだ。頭を撫で、咽喉のあたりを撫でさすればぐーごんぐーごんと謎の音さえ発して気持ち良さそうにしている。

「えー。スゲェなコレ」

足の上に湯たんぽでも置いているかと思うほど温かい。
なんだか自分まで心地良くなってきて、青峰は目を細めて笑う。

「――ね――ーぃ」

またうしろから声が聞こえる。

「ぉ――ねっ――ぃ」

今度は甘くて澄んだ鳴き声。

「青峰っちぃ! お待たせ! ねえやっぱ寒くないスか!? 炭酸も買ってきたっスけど、ホットココアあったからこれも良かったら……ってなんスかその、えっと、猫? 野良? あ、いや飼い猫?」
「なんかここいたら勝手に乗って来た」
「まじスか。かわいー。安心しきってるって感じっス」

青峰がベンチに背を預けて仰け反ると、すぐ後ろから青峰を覗き込むようにしていた蜂蜜色の目とぶつかる。
夕日にあてられたその瞳があまりにもきらきらと美しく輝いているものだから、青峰は少し驚いてつよく一度瞬いた。

「ココア」
「え?」
「飲む。よこせ」
「あ、ああ。熱いから気をつけてね」
「サンキュ。寒いからやっぱあったけぇの頼めば良かったかなって思ってたんだよ」
「なら良かったっス」

自分の気配で逃げないか心配なのだろう。黄瀬は青峰と少し距離をとり、やたらと慎重にベンチへと腰かける。

「あ、」

猫がぱっと頭をもたげた。黄瀬と見つめ合う。見つめ合って――

「うわ、おい!」

ふいと顔を背けたかと思うと青峰の肩へと登り、今度は首に額をすり寄せ始めた。

「えっちょ、なれなれしすぎないスかこの猫! 俺の青峰っちに!」
「お前のかどうかは知んねーけどな」
「えええ。ひどいっス! ちょっとくらいは、俺のじゃん?」
「さァ、どうだか。わはは、こそばいってコラ」

猫はよほど青峰のことが気に入ったのか、幾度も頭突きかという勢いでうなじやら後頭部やらにその顔とヒゲをなすりつける。
黄瀬には一瞥をくれただけで、まるで関心を示さない。

「かっ、かわいくねーっス」
「お前、どっちかってーと犬っぽいからダメなんじゃね?」
「犬っスかねえ」
「普段はな」
「……いいなあ。うらやましい」
「あ? ああ。あったけーぞお」

首に猫毛100%のマフラーを巻いた状態で青峰が笑うと、黄瀬は「そういう意味じゃねっス」と唇を尖らせた。
やがて満足したのか猫は青峰の躰をするすると降り、優雅な足取りでその場を離れる。

「またなー」

平然と去って行く後ろ姿へと青峰が呼びかけると、猫はちらりと二人を振り返り、「おわあ」と鳴いた。

「あれ絶対女子っスよ」
「ジョシ、て」
「いやでも俺みたいな男かも」
「狙われてんのか、俺」
「そーっスよ! 青峰っちは自分じゃ気付いてねーかもしんねっスけど、人気モノなんスから……その、ちゃんと捕まえとかないと……」
「――お前がソレ言うかよ」

青峰は引き上げたニットの袖で熱くなった缶を掴みながら、ひとくちココアを口に含む。甘い。そして温かかった。
そのあとこぼれた言葉に、黄瀬の目がまあるく開く。「え?」と。「青峰っち、見たの?」
それはついこの間まで買ったことも無かった雑誌の名前。
桃井が「きーちゃんすごくキレイなんだよ」とご丁寧に青峰の部屋まで押しかけて見せてくれたものだ。
「魅惑のカラダ」などという恥ずかしいタイトルとともに「今大人気の黄瀬涼太、その鍛え上げられたセクシーな体のヒミツは?」とかなんとか。
眺めてみれば女性誌だってグラビア雑誌と大差ないんだな、などという至極どうでも良いことを気付かせてくれたそれを、青峰は最初鼻で笑ってろくに見もしなかった。
だけど、彼女が「じゃあこれ置いてくねー」などと言ったから。
そこにそんなものを本当に放っていくから。
いやいや女性アイドルのグラビアページもあったから。
色々な言い訳を思い浮かべつつ青峰はその雑誌をめくった。

「『俺も、バスケに恋してるのかもしんないですね。カッコワライ』」
「いやああああ! うっそおおおおおお!」
「かっこいーわー黄瀬クン」
「なんで!? なんでそんなん見てるんスかあ! いつも俺の仕事なんかキョーミないくせに!」
「ねーよ」

黄瀬のことは見ていたい。けれど「モデルの黄瀬」が見たいわけじゃない。だから基本黄瀬の載っている本は見ない。
はずだった。

「じゃあなんで! しかもよりにもよってソレ!」
「さーな」
「さーな、って青峰っちぃ……」

黄瀬の取り乱し様は結構なもので、雑誌に載っていたような“クールなのにキュート、女の子のハートを掴んで離さない”黄瀬涼太の片鱗はまったく見当たらない。
興奮で潤んだ瞳を忙しなくきょろきょろ泳がせ、顔を俯けて青峰の肩を叩いてくる姿は、まったくもって年相応の、普通の高校生だった。

「でもやっぱなんか、あんなお前見ると、腹がぐつぐつする」
「ぐつぐつ?」
「なんかよくわかんねェけど。そうなんだよ」

嫉妬にはおおよそ遠い。
紙の上でポーズをとって万人へと笑みを向けているのだって、確かに黄瀬だ。
でも自分はこんな作り物じゃない黄瀬を知っている。見ている。手にしている。
誰の目にも触れない、誰も知らない、自分だけの黄瀬がいる。
そのことにむしろ満足する。それどころか優越感さえ感じている。
なのに同時に、何故こんな釈然としない気持ちになるのか。
誘いを断られること自体は別に良い。忙しいのも仕方ない。今までだってベタベタしてたわけじゃないし、学校の距離だって遠い。
だから仕方ないって思っているのに、黄瀬があまりに哀しむので。仕事でゴメンね、せっかく誘ってくれたのにゴメンね、お願いだからまた誘ってね、と繰り返すので。
青峰はだんだんそのモデルの仕事が憎くなってしまった。
そういうこと。
ただそれだけのこと。

「お前、顔だけなら猫っぽいんだけどな」

手を伸ばして黄瀬の頭を撫でて、そのまま小さな顔の輪郭をたどる。

「うぁ、でも、青峰っちの方が」
「俺の方が?」
「近所一帯を仕切ってるボス猫っぽいっス」
「なんだそりゃ」

顎の下を先ほどの猫にしたようにうりうりと掻いてやると、くすぐったそうに身を竦ませつつも嫌がる素振りは見せない。それどころか歓びに満ちた眼差しをじっと向けてくる。
濃く長い睫毛に縁どられた瞳に、青峰だけが映っている。

「青峰っち」

上気した頬で笑う黄瀬の、唇から転がり出る弾んだ音。

「……つかお前の飲み物は?」
「あ、……ハハ……忘れてたっス。青峰っちのどうしようか悩んでたら」
「バカか」
「うるせー」
「んじゃどっか入ろうぜ」

青峰は黄瀬の頭を立ち上がりざまにもう一度掻き混ぜると、スポーツバッグを肩にかけ声を上げる。
時間はまだたっぷりあるし小腹も減った。
何より会えなかった一ヶ月分のブランクは、まだまだ取り戻せていない。
そうは見えないかもしれないけれど、これでも青峰なりに、バスケが好きで図体ばかり大きくて胸が平らでうるさくて頭は悪いけれど愛しい金髪の恋人にだいぶ飢えていたのだから。
あんな雑誌に手を伸ばしてしまうほどに。
けど、あの程度では腹の足しにもなりゃしないのだ。

「行くぞ。黄瀬」

黄瀬は青峰をしばし呆け顔で見上げたあとに「はいっス!」と元気よく叫んで立ち上がった。

「やっぱ犬か」
「どっちでもいっス。青峰っちのそばにいられんなら」

ぎょっとして隣を見ると、上機嫌に鼻歌を歌う黄瀬がいる。
そうやって考えなしに爆弾落としてくのやめろよ、そう思いつつ青峰は、「ホントバカだな」とちいさくちいさく呟いた。
遠くで相槌を打つように、猫の鳴き声がした気がした。



20130222