みかんの食べ方


普通の人間ならば、恋人が家に遊びに来ているのに自分はこたつで寝こけているなんてことはきっとしない。
普通の人間ならば。
日向は目の前に転がっている頭を見た。大樹の幹に似て深く艶のある樺茶色の髪の一本一本は存外細くて、指を挿し入れるとその間をさらさらすり抜けてゆく。
太い眉はすっかり力を失って、顔からずり落ちるんじゃないかというくらいにゆるみ切っているし、口も半開き。なんとも間の抜けた寝顔だ。いっそ腹が立つほどに。
すうすうと穏やかな呼吸に合わせて張り出した胸板がゆっくりと上下するから、その上に湯呑でも置いてやろうかとさえ思う。

(まあ、しねーけど)

被害が彼一人のみに留まるならやっていただろうが、畳やこたつ布団を巻き添えにするのは忍びない。
しばらくその寝顔を眺めていた日向は、やがて溜息をひとつ吐いて目の前にあった籠からみかんを一つとり剥き始めた。橙色の皮に爪を立てた途端、部屋が一気に瑞々しい香りに包まれる。唐突に思い立って、綺麗に向いた皮を寝転がっている彼の鼻先にぶら下げてみた。

「? ……ぅ……ぇっくしょい! ……んん?」
「わー……オヤジくせえ……」

色気もへったくれも無いくしゃみに、思わず口から素直な感想が滑り出てしまう。

「ぁえ? ひゅうがぁ。なんかしたかあ?」

薄くあいた瞳に、間延びした声。
横たわったままとろんとした眼差しを向けてくるのは勿論計算づくでもなんでもない。
人が言う彼の“たくらみ”みたいなものは、彼自身にはまったくこれっぽっちも適用されない。他人やチームのことはあれこれと慮っていても、自分のことに関してはなんにも考えていない。
驚くほど無策で、無防備。
だからこそ、日向としては困るのだ。

「してねーよ。木吉」
「ホントに?」
「してねーっての」
「ふむ」

木吉はぱちぱちと眠たそうな目を幾度も瞬かせると、音も無くむくりと起き上がった。日向の手元に影が差す。見ると思いの外、近いところに木吉の顔があって驚いた。色素の薄い瞳が、日向をじっと見つめている。視線が合うと心なしか楽しげに目じりが細まった気がした。

「あっ。みかん食ってる」
「おう」
「俺にもくれ」
「ヤダね。自分で剥け」
「えええ。ズリーぞ日向」
「何がだよ」
「そんぐらい、いーじゃんかよお」

文句を言いつつ大きな手で橙の玉を一個掬う。なんというか、普通のサイズのみかんのはずなのに、その手に収まると凄まじく小さく見えるから恐ろしい。

「日向見ろ!」
「あん?」
「指が腫れたぞ!」
「小学生か!」

親指に突き刺したみかんをふりふりと左右へ振って見せながらぽかりと笑う顔はひどく幼げで、日向は口から甘酸っぱい汁を飛ばしながら怒鳴った。
頭痛がする。本当に。
ここは恋人の家で、今、二人以外には誰もいなくて、なのに相手は何食わぬ顔でこんな無邪気な様子でいる。

「う〜っ! 日向、これすっぺーの当たっちまった」

顎の付け根をおさえながら涙目になるその頬は、眠っていたせいか少し赤い。何かもう一枚羽織らないと風邪をひいてしまうかも、と思い近くにあったひざ掛け用の毛布を手繰り寄せて「かけろよ」と言う日向を、木吉は不思議そうな顔で眺めて、「寒いのか?」と首を傾げた。「俺じゃねえオメーだよ」

「大丈夫だって」
「ダメだ。寝たままの恰好は」
「こたつ入ってたせいで今暑いんだって」
「子供みてーなこと言うな」

膝立ちになってぶあついトレーナーの上からぐるりとモヘアの毛布を巻いてやると、木吉は「いいのになあ」と唸りつつも特に抵抗はせずに大人しくしている。
みかんのにおいがする。
木吉から漂うにおいは、餡子だったり、芳ばしいどら焼きの皮だったり、砂糖たっぷりのカフェオレだったり、甘くて歯が抜けるんじゃないかと思うようなココアだったりと様々だけれど、大抵が赤ん坊のようにやさしくてふんわりしたものだ。
でも今はみかん。

「わ、ひゅ、日向?」

がぶりと唇に噛みつく。木吉がぎゅうっと目をつむるのが眼鏡越しにはっきり見えた。眉間から鼻の根元あたりまでをくしゃくしゃにして、眼球が痛くなるほど瞼を圧し閉じるその姿に、満足する。いつも余裕ぶって何もかもわかったような顔でいるこの男を、自分のところまで引きずりおろして捕まえた気分になるので。

「ふ、ん、んん」

お互いまともに女子と付き合ったこともないのだが、おそらく木吉はキスが下手である。
最初の時は息を止めていたものだから、終わった途端酸素スプレーがいるかと思うほどだった。
「息しろよ!」と怒ったところ「よしわかった息継ぎはどのタイミングだ。クロールか。平泳ぎか」と例によって意味不明な回答を得た。
それを少しずつ少しずつ慣らして近づいて、ようやく今。どこらへんまで来たのだろう。まだ遥かに道は遠いだろうけど、それでもだいぶ頑張ったと日向は自負している。
木吉と日向の体の距離はまさに心の距離そのものだった。
だから最初のうち、木吉は「日向、彼女作っても大丈夫だからな」なんてことを大した風でもなく言っては、日向を激昂させた。
ンな風に予防線張って、わかったフリして、俺は傷付きませんよって顔して逃げるのやめろ――そう掴みかかった(抱きしめたとも言う)日向に、木吉はきょとんと目を丸くして「参った。日向はなんでもお見通しなんだな」と笑った。
日向には泣きそうにしか見えなかったけれど、きっと気のせいだろう。
ただそれ以降、木吉はそういうことを言わなくなった。たまに自分からもキスをするようになった。

「ぶはーっ! やっぱり苦しいなこれ!」
「まぁた息止めてんのかよ……」
「はは。日向のこと考えてたら、つい息すんの忘れちまってさ」

やっぱり頭痛がする。
苛立ちを隠そうともせず籠から二個目の玉を掴みながら、日向は盛大な溜息を吐いた。

「お前ホントたまには俺の気持ちも考えろよ」
「なにがだ?」
「お前はなんも思ってねーのかもしんねーけどな! 俺はいつだってお前のこと食っちまいてーと思ってるんだよ!」

――こうしてこうして! ひん剥いて! ガブッと!
親の仇のごとく橙色の皮を剥ぎとり、房をちぎる手間さえ惜しいとばかりにかぶりつく。果汁が二人の間に飛び散って、へっぷしょい、と木吉がまたくしゃみをした。

「ああ、うん」

そういえば目が覚めてから随分経ったにも関わらず、未だに木吉の頬はほんのりと赤い。まさか本当に風邪でもひいたのかと日向がその額に手を伸ばそうとしたその時――

「俺は、いつ食われてもいいと思ってるんだかなあ」

…………――ばん!
拳を叩きつけた勢いでこたつの天板が傾いて、湯呑とみかんがジャンプする。
笑みをたたえたままの呆け顔を抱え込んで、今度こそ手加減無しのキスをする。

「もー怒った……! どうなっても知らねーかんな木吉!」
「――っ、おう! さあ来い!」

なんでも掴み取る手をめいっぱい広げてみせるその姿を見て、どうにもたまらない気持ちになる。様々な感情が一挙に押し寄せて来て、けれどそれをどう表現したらいいのかわからないものだから、結局日向は木吉を押し倒しながら叫ぶしかなかった。

「こんの、ダアホ!」

(好きだ、ばかやろう!)



20130303