ワールドエンド


職業柄、こういった場所へは誘われやすい。
アルコールとタバコと埃の臭い。乾きすぎて咽喉がいがらっぽくなる空気。頭痛がするような大音量。眩暈のするようなブラックライト。
黄瀬はここが大嫌いだった。

「きゃっ、すみません」
「いえ」

また足を踏まれ、顔をしかめる。本日何人目だろうか。もちろん偶然では無く、そう装ってちょっかいをかけて来ているのだ。彼女たちは。
だからと言って、黄瀬は決して「何かおごるよ」とは言わない。ただ涼しげに笑みを返し、「大丈夫? 気をつけて」とだけ口にしてするりとその場をあとにする。獲物を逃した、という顔をする子もいれば、それだけでうっとりと我を忘れてしまう子もいるし、気ィきかねーな、なんて舌打ちする子もいる。

(あーゆーのはどこにでもいるんだなー)

呆れて溜息を吐くものの、もうVIPルームには戻る気にもならなかった。
黄瀬はごく普通の家の、ごく普通の男の子として育てられた。父と母にはだいぶ甘やかされたが、姉二人にもまれていじられて。芸能界に入ったのだってたまたまだ。自分が率先して入りたいと思ったわけでも無く、気付いたら姉が勝手に応募していて、あれよあれよと言う間に雑誌の表紙を飾っていた。
だから正直なところ、がつがつぎらぎらした、「他人を蹴落としてでも自分が上へ行きたい」という人々がひしめいているこの世界には、違和感を覚える。
負けず嫌いで、自分が一番でなければ気がすまない。
自分こそが最強と、知らしめたい。形として誰かの目に突きつけたい。
そんな風に思っているにも関わらず、だ。
あくまで黄瀬が欲しいのは自分で勝ち得た一番であって、誰かを貶めて手に入れる残りものの一番では無いし――なにより彼は、バスケを愛していた。

(結局のところ、アレを超えるモンじゃないってことなんスよね)

いい加減、耳の奥ががんがんして目の玉の裏がちかちかしてきた頃、黄瀬は見覚えのある長身をフロアの入り口に見つけ、瞠目した。
かれこれ四年ほど共に暮らしていた同居人。たまたま今は日本に帰って来ていて、でも今日は昔の仲間と飲み会だったはずだ。

「クッソうるせえ。クサい。あと六本木ビミョーに遠い。なんかおごれ。さっさと帰んぞ」

黄瀬の前にたどり着くなり、青峰は思っていたことをすべてぶちまけ、フン、とひとつ鼻を鳴らした。

「え、なんでアンタここにいるんスか」
「早めに切り上げたっつーか、お前いないとアイツらも調子出ねェみてーで……また改めて後日飲み直しだ。オラ来い」

ぶっきらぼうなその言葉と差し伸べられた手はどんな酒よりも強力で、途端に黄瀬の頬を紅く染めてしまう。

「お前も好きじゃねーならこういうトコ来んなよ」
「仕事上の付き合いってモンが、これでも一応あるんスよ」
「なら辞めちまえ」
「それ本気で言ってる?」

再び音楽が鳴り出して、人々が踊り出す。青峰がこれ以上ないほど眉間に縦皺を刻んで、「出るぞ」と大きく口を動かして促した。190センチ半ばの厳めしい顔つきの大男が通ろうとすると、おもしろいくらいに人波が割れて、聖書だかなんだかに出てくる海を割ったヤツみたいだな、と黄瀬はらしくもなく思った。

エスカレーターに乗り、少しずつ静けさが戻ってくる頃、なによりも愛しい低音が響く。

「本気だよ」
「え?」
「付き合いでイヤイヤこんなトコ来るような仕事なら辞めちまえ」
「そんでバスケでもしてろって?」
「そうだよ」
「バッカじゃねーの青峰っち。オレはアンタと違って生活があんの。これでご飯食べてんの」
「メシくらいオレが食わせてやる」
「あはは、まーたまたあ! 青峰っちご飯作ってくれるんスか? まったくもー、なに言ってんだか……」

二人の視線がぶつかって、エスカレーターが唐突に終わって、のめるようにフロアへ下りる。
黄瀬を振り返った青峰は、馬鹿みたいに真剣な顔で言った。

「オレが食わせてやるよ。アメリカのメシだけどな」

黄瀬は現役売れっ子モデルで、芸能人で、業界人だ。中学生の頃は多少調子にも乗っていたかもしれない。
けれど、彼は、青峰は普通の男だ。
普通の、バスケが好きな、スポーツマンだ。
アルコールも、タバコも嫌い。「クラブ」なんてバスケの部活動で十分だろと思っている。
自分が有名人だなんて微塵も思っていない。肩書きだけで寄ってくる人たちを、鼻にも歯牙にもかけやしない。

「……オレを『普通』に繋ぎ止めてくれたのって、青峰っちなんスよね」

どんな仕事をしていても、どんな人と一緒にいても、黄瀬の基準は青峰であり、海常で培った先輩後輩やチームの信頼関係であり、今長い月日を経てようやく再び向かい合うようになった中学時代の戦友であり、要するにそういう、そういう汗くさくて眩しい陽のあたる世界のものだ。
ここも悪くは無かったけれど、それでももう一度だけ、あっちの世界であがいてみたい。

「じゃあがんばって、オレも向こうで青峰っちひとりくらいは食わせられるようにしないとだ」
「オレがお前を食わせて、お前がオレを食わせるって?」
「はは、そーゆーことっス」
「なら、半分でいんじゃね」

――ふたりでひとつの家に住んで、なにもかも半分こにすりゃちょうどいんじゃね。

くちびるを尖らせ言う青峰に向かって、黄瀬は小首を傾げて笑いかける。

「後悔しても知らねっスよ?」
「するんだったらもっと前にしてらあ」

片方の口角だけを吊り上げる笑い方。くすぐったそうにつむられた目元。もう何年も、黄瀬が愛してやまない青峰の笑顔。

「ちがいねーっス!」

自動ドアが開いた瞬間、黄瀬は青峰の頬にキスをして、その手を引いてダッシュで外へと飛び出した。

「――ッ! 黄瀬てめっ……!」
「もう離さねェっスから!」
「そりゃこっちのセリフだ!」


――スポットライトやフラッシュライトに溢れた場所より、やっぱりアンタとおんなじところで、きらきら光るあのコートで戦っていたい。



  最後の一秒まで。



20130907