エニタイム エニウェア



真夏の炎天下、まさに炎の化身の如く。その男は傲岸にさえ見える笑みを浮かべ振り返った。
黄瀬はぐっと唇を噛み締める。
強い陽射しもだが、地面から立ちのぼる熱気に息が詰まりそうだ。いや、彼と対峙すると、いつだって息をすることさえ忘れそうになる。

「っ、クソ」

乱暴に唸り、顎を伝って落ちそうになる汗をとっさにTシャツの裾で拭った時。

「オイ、」

青峰が何かに驚いて目を見開いた。

「黄瀬、お前、ハナ、」
「んぇ?」

もう一度、今度は手の甲で。やけにぬるつく鼻から口元にかけてこすった黄瀬は、そこでようやく自分の身に何が起こっているかに気が付いた。


「――はあ〜……鼻血とかダッサ……」

独り言である。
青峰は笑うかと思いきや、黄瀬の腕を掴むと半ば投げ飛ばすようにして木陰のベンチに座らせた。それから濡らしたタオルを持って来て、「下向いてこれ当てて鼻摘まんどけ。俺は便所行って来る」と言っていなくなってしまった。

「……悔しい」

項垂れたままもう一度。
呟きが思った以上に低く掠れているのは、先ほどわずかながら口の中に流れてきた血のせいだろう。

「強くなりたい」

青峰のように。青峰以上に。

「上手くなりたい」

青峰のように。青峰以上に。
声に出すとより一層形がはっきりする。

「――――――あー、こんなんばっかだな、俺」

青峰ばかり見ていては駄目なことなどよくよくわかっている。全てを青峰基準にしていては、憧れていた頃と何ら変わらないだろう。
それでも、黄瀬涼太にとって青峰大輝はまず乗り越える壁であり、倒さねばならない相手として君臨し続けている。

「……でも楽しい」

ふへ、と気の抜けた笑いが漏れた。
自分の足を、心を捕らえて離さない。きらきらと輝く甘い鎖。
引き千切って置いてきたはずのそれは、だからといって綺麗さっぱり消えるものでもなかった。今でも光る欠片になって、自分の来た道や行く道に散らばっている。
だから時々こうして踏んづけて血が滲む時もあるけど、悪くはない。
足元に視線を落とすと、木陰から落ちる陽光が美しい網目を作り出している。絶えず揺らめき光る様子は、どこか水面のようにも見える。
不意にとぷん、と水の音がした。

「オラ、」
「うひぇっ!?」

頬に冷たいものを押し付けられ、素っ頓狂な声を上げる。首をひねると水色のボトル。その向こうには息を切らした青峰が立っている。

「飲め。片方は首にでもあてろ」
「えっ? あっ、」

見れば彼の手には白いビニール袋が下がっており、氷らしきものも覗いていた。最寄りのコンビニは歩いて五分ほどのところにあるが――このスピードだと走って行ってきたのだろうか。

「ど、どーもありが……とう……」

らしからぬ暴君の親切にどきまぎしつつスポーツドリンクを受け取ると、眼前に黒い手が突き出される。

「五千円な」
「たっか! つか金取るんスか!」

とんだボッタクリ商売だった。

「ウソだっつうの……。千円でいい」
「いやちょっと待ってそれも高くない?」
「チッ、バレたか……」

……どこまで本気かわからない。怒鳴るとまた鼻血を噴きそうなので、黙って首筋にボトルを当てた。

「きもちー……」

体を駆け巡っていた熱がすうっと引いてゆく感覚に、思わず安堵の息をこぼす。それを見て青峰もようやくほっとしたかのように大きくひとつ息をつき、横に座ってスポーツドリンクを飲み始める。

「――今日はそろそろ切り上げるか」

やがて落とされた呟きに、黄瀬は猛烈な勢いで「やだ!」と跳ね起き――そのまま前のめりにぼとりと青峰の膝の上に墜落してしまった。「ほれみろ」。声はやはりどこか強張っているように聞こえる。その証拠に、いつもならすぐに振り払われるか蹴落とされるかしそうなところを、青峰はじっと動かない。
渋々「わかったっス」と頷いた。頷いたと言っても青峰の腿に額をこすりつけるような仕草だったが。
青峰とのバスケをここで切り上げることへの未練はもちろんとして、もう一つ非常に残念なことがある。
恋人である青峰とのワン・オン・ワンのあとは――お互い言葉にしたこともなければそうと決めたわけでもないけれど――二人にとってのデートの時間なのだ。

「あの、青峰っち……」

不機嫌、なわけではない。けれどもどことなく口数の少ない、普段と違う雰囲気をまとったままの青峰に、今度こそ眩暈を起こさないようゆっくりと体勢を立て直しておそるおそる尋ねてみる。

「でも予定通り、青峰っちン家には行きたい」
「言うと思った。好きにしろよ」

帰途で黄瀬は二度ほど鼻にティッシュを詰め、休憩をとる羽目になった。


「暑さでそのうち地球滅びるっしょ……」

エアコンを効かせた上に扇風機までフル稼働中の部屋に、恨みがましい声が響く。
その額や首の後ろ、脇の下には、青峰家の冷凍庫にあった保冷剤がありったけ詰め込まれていた。そろそろ寒いレベルだ。
だが青峰なりの好意だと思うと嬉しくて、なかなか「もういい」とは言い出せない黄瀬である。

「夏嫌いか」
「夏自体嫌いってほどじゃないスけど、暑いのはキライっス。青峰っちは?」
「俺は結構――嫌いじゃねーな」
「好きなんだ。だからそんな黒くなるんスよ」
「黒さは関係ねーだろ」

ベッドに寝転がる黄瀬に背を向けて、青峰は風を浴びながら麦茶を飲んでいる。
少し伸び始めた襟足の毛が鬱陶しいのか、しきりにかき上げる仕草をしたあと諦めたように腕を下ろす姿は、野生の豹のようだった。

「……やっぱ夏好きかも」
「あン?」
「青峰っちにインハイで負けたの、夏だったっス」
「ドMかよ」
「帝光でのいい思い出も大体夏だし」
「…………」
「ていうか大体青峰っちが夏生まれだし、夏っぽいし」
「どうでもいいだろそんなん」

青峰の長い指が扇風機の風を「弱」に切り換える。それから手と膝をついてやはり四足獣のように黄瀬のもとに這い寄ると、じとりと顔を睨みつけてくる。

「調子は」
「もー大丈夫っスよ。たぶん」

こっちこっち、と手招きをすると、青峰は不審げに眉をひそめつつも身を乗り出して応じた。彼が近づくと、なぜかふわりと海のような匂いがした。それから水を撒いたばかりの庭の若草に似た香り。

「うわ!?」

気付けば褐色の首筋を舌でなぞっていた。

「……へへ、しょっぱい」

舌を出して笑ってみせると、青峰は脱力して肩を落とす。
ムキになって襲いかかってこないところを見ると、今日は望みどおりの展開にはどうしてもいかないようだ。そんな日もたまにはいいか――でもせめてキスはほしい。ゆっくりと目を閉じる。
少し経って、熱く湿った唇がかぶさってきた。二度、三度、触れては離れを繰り返す。薄く開いた唇の間から出た舌先がちょんとぶつかって、慌てて双方ともに引っ込む。それが我ながら面白くて――あとは青峰が愛しくて、鼻から甘い息が漏れた。

「黄瀬ェ」
「なんスか」
「ちんこ痛くなる」
「する?」
「しねえ」

見れば眠気に襲われているようで、先ほどまで鋭かった蒼い双眸がとろんと半眼に溶けかけている。

「じゃ、寝ましょっか」

黄瀬はがっしりとした胴を掛け布団のように抱きしめ肩口に顎を乗せ、ぴんと張りつめたこめかみにくちづけた。

「重いだろ」
「重いけどきもちーっス」
「あと、暑い」
「青峰っちの体温が高いんじゃね?」

互いの胸板が呼吸のたびに押し合いへし合いする感触。息苦しいけれど心地いい。うとうとしながら囁く。

「ねえ青峰っち」
「あ?」
「夢の中でまたバスケしよ」
「……お前もしかして俺よりバスケバカなんじゃねーの、黄瀬」

それは今の黄瀬にとって何よりの褒め言葉でしかない。



20191010