2:ハバグッデイ!


目覚まし時計の電子音が、まだ微かにひんやりとした空気を震わせようとしたまさにその瞬間。
俺は問答無用で左の手を振り下ろした。



青峰大輝の朝は早い――
なぜならば、愛する妻を起こさなくてはならないから。



さすが店で「ダンクブッ込むくらいの力で叩いても壊れない目覚ましをよこせ」と言っただけあって、頑丈な目覚まし時計だ。ビクともしねえ。
俺は横目で時計を見てから、そっと顔を傾けた。
薄闇の中でもわかる金色の髪が見えて、規則正しい寝息が聞こえる。良かった。今の音では起きてない。

(安心しきったカオしやがって――)

俺の右腕にしがみついている黄瀬は、なにもかも俺に委ね切っているみたいに無防備な顔で眠ってる。
たまらず額にくちづけて髪を撫で、白くてやわらかそうな頬に指を這わせる。ついでに、ちょっとつまんでみる。
それでも黄瀬が目を覚ます様子は無く、小さく眉根を寄せて「ん、」と声を漏らしたきり、再びくうくう言いだす。
一緒に暮らし始めてからは、朝一番、こいつの寝顔を眺めるのが俺の日課になった。

黄瀬は存外低血圧らしく、寝起きが悪い。
まず起きるのに時間がかかるのだが、それよりも起きてからボケッとしている時間が長い。
今はモデルの仕事をだいぶがっつりやってるせいで(大学には留年しているものの在籍しているらしい)かなり夜型になっているから、それが余計にその寝起きの悪さに拍車をかけているのかもしれない。
にしても、よくもこんなんで帝光の朝練とかほいほい出て来てたもんだって思う。
だって俺の記憶の中の黄瀬は、常に黒子や赤司と一、二を争うくらい朝早くから体育館にいて、あわよくば俺と一戦交えようってくらいテンションが高いイメージだ。
以前、それを本人に言ったら、「それは黒子っちや青峰っちと少しでも早く、少しでもたくさん一緒にバスケやりたくて無我夢中だったんスよ。だから起きるの苦じゃなかったっス」なんて返ってきた。
なんつーか、俺はこいつのこういうところをずっと気に入ってたんだったって、改めてそん時思った。
だけど一緒に暮らすようになってからは、すっかり俺が黄瀬の起こし役になってしまったわけで。

(いつまでも眺めていたいが、そろそろそうもいかねェか)

いい加減起こさないと、遅刻する。
若干の名残惜しさと共に、俺は黄瀬の耳元で低く囁いた。

「黄瀬、朝だぞ起きろ。きーせ」
「…………んぁ、あお、みねっち…………?」
「おう」
「――あおみねっち……あおみねっちだあ〜」

黄瀬はとろんとした両目を必死に開こうとしながら、覆いかぶさる格好になっている俺の首に腕を巻きつけ、幼子じみた声を上げた。
耳に響く起き抜けの鼻声。布団やパジャマにこもったこいつの体臭が、動くたびにふわっと鼻先をかすめる。
つーかマジなんでこいつこんないいにおいすんだよ。中に花でも詰まってんのか。
更にすり寄せてくる頬は、俺のヒゲでざらついた肌とは大違いで真っ白のすべすべだ。

「ぇへへ、あおみねっち……ほっぺたじょりじょりするっス〜」

そんな白雪姫と眠り姫のハイブリッドみたいなヤツ(でも外見は王子風)が、俺の名前を呼んでめいっぱい甘えてくるのに、俺は溢れそうになる色々をひたすら我慢するしかない。
もしここで俺が手ェ出して、朝からコトに及んだりしたらお互い色々影響が出る。
俺はバスケ。黄瀬はモデルと学業。相手のことが大事なら、その相手が打ち込んでいることも尊重するってのは、俺達が一緒になる時に決めたいくつかのルールのうちのひとつだ。
だから絶対、ここは堪えなきゃなんねえ。

「あおみねっち……? もっとちゃんとだっこぉ〜……」

にしたってどうだこれ。拷問だろう。すげえ拷問だろう。むしろご褒美を与えられつつの拷問だろう。

「んにゃ……あおみねっちぃ……」

こいつと付き合い始めてから、俺はさつきに少し我慢強くなったと褒められたくらいだからな。
ただし、

「その我慢も三分しか保たねーよ!!!」
「へ、っ……? んぅ!? ん、んーっっ!? んむうううーっ!?!?」

俺を焦らして苦しめた時間のたっぷり三倍ほど、俺は黄瀬の唇を思う存分舐めて吸って口ン中に舌突っ込んでかき回して蹂躙してやった。
なんか叫んでるが、無視。
肩をバンバン叩かれても、無視。
腰がもじもじしてるのも、当然無視。
時折とんでもなくエロい吐息がうっかり聞こえても無視だ無視無視!

「…………――ッハ。ごっそさん」
「……………………――ぅ、あ……」

一通り味わって満足すると、青白かった顔にすっかり血の色を行き渡らせてぐったりした黄瀬を担ぎ、ソファーに座らせてから、たっぷりのミルクと砂糖ひとすくいを加えた温かいカフェオレ入りのマグを突きつける。

「目ェ覚めたか」
「あぃ……だいぶ……さめましたっス……」

恥ずかしさで目を合わせられないらしく、ふーふーとやたら必死にカフェオレへ息を吹きかける黄瀬の頭をぐしゃぐしゃ撫でた俺は、洗面所へ行って歯を磨き、顔を洗い、ヒゲを剃り、黄瀬が俺用に買ったという化粧水と乳液を申し訳程度につけてから着替えを済ませた。
まああいつと違って、俺は出かけるまでに五分でもありゃ充分だからな。要するに早起きの理由の九割はあいつなわけ。
嫌なのかって? んなわきゃねえだろ。こんな役目、他の誰にも渡すもんか。

リビングに戻るとその早起きのもとが、やや緩慢な動作で俺の靴や鞄を準備していた。

「あーいいってのそんなん」

そう言いつつも、俺は既に玄関に置いてあるスニーカーが、さっき着替えながら「今日はあれを履いて行こうか」と考えていたものそっくりそのままなことに喜色を隠せないでいる。
改めて礼を言うのもこそばゆいので、また黄瀬の頭を撫でた。今度は、少し優しく。
黄瀬は嬉しげに目を細める。普段は犬っぽいが、こういう時は猫みたいだ。

「それよりお前も昼から仕事だろ。ちゃんと食ってけよ」
「うん。そうするっス。青峰っちは食べたらすぐ出かけちゃうスか?」
「今日はトレーニング前に雑誌の取材があんだよ。めんどくせェ」
「そんなこと言ったらダメっスよ。ファンは大事にしなきゃ」
「わーってる」

まるで交わされる言葉そのもののように、サラダのボウルやジャムの瓶がリズムよく俺の手から黄瀬の手へ渡る。
ダイニングテーブルの上にはあっという間に二人分の朝食が並ぶ。

「それに俺だって青峰っちが載ってる本見るの、楽しみなんスから」
「あーそーかよ」

知ってるよ。お前、俺が載ってる記事を全部ご丁寧にスクラップしてアルバム作ってるじゃん。
あれちょっと恥ずかしいんだよな。つか自分の方がバンバン雑誌の表紙とか飾りまくってるのになんなんだか。
……とはいえ俺も、いつのまにか手元にあるのがグラビア系じゃなくて、男性向けファッション雑誌やこいつの写真集ばっかりになってて愕然としたけど。

「そんじゃ、」
「「いただきます」」

朝の食卓の話題は、まず今日のお互いの予定の確認。
それから帰りの時間が被りそうならどこかで待ち合せようとか、晩御飯は何がいいかとか、今度の休みどこへ行こうかとか。
不思議だ。こいつとこうして向かい合ってそんな会話をしている。
昔の俺なら、きっとどうでもいいって思ってただろうな。
別にないがしろにしてたって意味じゃなくて、当たり前すぎたって意味で。
でも、会えない時間や距離が、そして黄瀬が、俺を変えた。
――……お、そろそろ出かける時間だ。

「いってくる」

いってきますはキスじゃなくて、ハグ。

「はい! いってらっしゃいっス!」

黄瀬が笑う。ぱたぱた手を振る。それを見るたびにああ俺幸せだわ、と嘘みたいにストンと思う。
朝の光のような。夏の向日葵のような。冬の夜道にともる家の灯りのような。そんな笑顔だ。
俺は玄関のドアを閉める間際、口の端を上げて手をかざし、

「黄ー瀬くん」

名を呼んだ。

――カシャ。

「よーし今日もいい写りだぜ黄瀬ェ! じゃあな!」
「おー! がんばるっスよ青峰っちー!」

そんなわけで、今日の俺の携帯の待ち受け画面は、とろけそうな笑顔でこっちに向かってピースしている黄瀬になった。
そろそろSDカードがいっぱいになるから、新しいのを買わないといけない。
今度この写真使って、日めくりカレンダーでも作っちまおうか。
こないだなんか、突然「今日は全身撮んぞ!」って言ったらあいつ寝惚けてるのもあってスゲー慌てて、その結果モデル立ちというよりはジョジョ立ちみたいな謎ポージングになったんだが……いやあアレは傑作だったぜ。天下のイケメンモデル黄瀬涼太のドヤ顔ヘンテコポーズ写真。
あとで「これ写真集に使えば?」って画像添付してメールしたら「ギャー! 消すっス! 消してください! 今すぐそれを消せええええ!><」という大変悲痛な返信が来たので、俺はそれを引き伸ばしてプリントアウトして寝室に貼っておいた。
ソッコー、破られた。

「どんなお前でもかわいーっつーのに」

すました顔、怒った顔、試合中のコーフンしてる顔、涙でぐしゃぐしゃになった顔。
それから俺だけに見せるその笑顔。なにもかも、全部だ。
俺は携帯の中で笑う黄瀬にキスして、駅までの道を走り出した。





あのいってらっしゃいに送り出されたら、毎日が最高の今日になる。





20120917 Have a good day!