2.5:きみの笑顔
「おかえりなさーい! 青峰っち!」
俺はドアから覗いた顔に向かい、「ただいま」よりも先に手の中のものを押し付けた。 どう言って渡せばいいのか、さすがによくわからなかったからだ。
「わぷっ! なにっ!? ……花束、スか?」 「おー。ただいま」 「はい。おかえりなさいス! じゃなくて、花。どしたんスか? きれーっスねえ」
黄瀬は小さな花束を手に、きょとんとした顔で小首を傾げてから、それこそ花の蕾がほころぶみたいにふわっと笑った。 それだけでびっくりするほど一枚の絵みたいで、一瞬見蕩れちまう。こええ。モデルこええ。マジやべえ。 俺はそんな動揺を押し隠しながら目を逸らし、いつもよりほんの少しだけ丁寧に靴を脱いだ。
「まあ、ちょっとな」 「? そうスか。へへ、ちっちゃいひまわり、かわいいなあ。白いのはトルコキキョウっスね。それから青いリンドウに……ミモザも入ってるっス」 「えらい詳しいじゃねえか」
黄瀬の口から、俺の知らない花の名前がスラスラ出てくる。 なんつーか、俺とこいつはおつむの出来ではどっこいどっこいだと思ってたので驚いた。 なんだこの地味なショックっつーか敗北感。いやホントすげー地味だけど。
「だって、よく撮影終わった時とか花束もらうっスもん。ああいう業界って何かにつけ花送り合いするし、なんかそれでいつのまにか」 「あーそういうことね」
納得。 そのままリビングへ向かおうとした俺は、数歩行って振り返った。いつも後ろからついてくる足音が無かったからだ。 案の定、黄瀬は上がり框に突っ立ったままでいる。
「おい、どした」 「青峰っち……」 「あん?」 「で、これ、どしたんスか?」 「は? ……いやだから、別にいいだろそんなん――!?」
驚いたことに、こちらへ向き直った黄瀬の目にはうっすら涙がたまっていた。 だが次にこいつが口走った言葉は、もっと驚くべきものだった。
「もしかして……う、うう、ぁ、うわき、してるんスか……」 「はああああ!?」
思わず飛び出した俺の絶叫に天井灯がびり、と震える。 なにを言い出してるんだコイツは。 つーかさっきまで笑ってたかと思ったのにいきなり涙目とか、どんだけ天気変わりやすいんだよお前。 俺は痛む頭を押さえ、黄瀬の襟首を掴んでソファまで引きずって行き、とりあえず座らせた。
「待てコラ。お前の中で今なにがどうなってそうなったか説明しろ」 「だっ、だって、だってぇえ。こないだ俺が載った雑誌に、『旦那が何の記念日でもないのに急にケーキや花を持って帰ったら要注意!』って書いてあったっスぅううう〜!」 「お前何歳あたりが対象の雑誌に載ったんだよ!?」 「四十代女子っス!」 「オェエ……」
しまったこいつのフェロモンは全方位常時垂れ流し型なんだってことを失念していた。
「青峰っち色々失礼っス! 俺真剣なんスよ!」
鼻の頭を真っ赤にしてプリプリ怒る黄瀬はぶっちゃけかわいい。が、今の俺には残念ながらそれを堪能している余裕が無かった。 真剣なのはこっちもだよ馬鹿野郎。そんなくっだらねえ雑誌の為にこちとらありもしねえ浮気の疑いかけられてんだぞ!? なんなんだよふざけんな。 たった今から四十代女子という名のババアは全員俺の敵だ。どんなに俺好みの巨乳でもだ。 むしろこいつに変なこと吹き込む女は全員俺の敵だわかったか。 俺はもう半分くらい切れかかった血管を、かろうじて両手で引っ張ってくっつけているような状態になっていた。
「買ったんだよ」 「だからなんで」 「――っ」
やっぱそこか。
「あー……今日、ウチのチームスタッフの一人が誕生日で、まァ夜は家族なり恋人なりと過ごすだろってことでよ。昼メシ時に皆でケーキやら花やら買いに行ったんだよ。俺ともう一人が花担当。つっても俺ァ花とかわかんねーし。店ン中ぶらぶら見てたんだわ」
そうしたら見つけた、小さな黄色い花。 目の中にぱっと飛び込んでくる、元気な色したそいつが――
「――なんか、お前みてェだって思ったんだよっ!」 「うぇ?」
涙に滲んでいた琥珀の瞳が、大きく広がる。
「それに……一昨日、待ち合わせしてお前待たせただろ」 「え? あ! アレはそんな、別に……。気にしてくれてたんスか?」 「……まあ……ちょっとだけ」
あの日はお互い仕事で、帰り合流して何か食って帰ろうって、だいぶ遅い時間に黄瀬の事務所が近い渋谷で待ち合わせをした。 ところがまあ、俺の方が予想外に予定が押して、あげく電車の遅延に引っかかって、遅れてしまった。しかも一時間近く。 黄瀬はもちろん大人しく待ってたさ。途中、俺に「大丈夫っスよー☆ ゆっくりお茶して待ってるから、青峰っちは慌てないで来るっス!」なんてメールをよこしながら。 そんで俺は、ホームから全速力で向かった約束のカフェの奥の奥で、あいつを見つけた。 背中を丸めてもバレバレな長身。かぶったハットからはみ出てるキラキラの金髪。左耳のピアス。愛用のイヤフォン。 ソファ席だっていうのにわざわざその向かいの椅子に腰かけて、入口に背を向けてる。 なんだか俺はその背を見て、たまらなくなったんだ。 そこに人目が無かったら、ぜってぇ後ろから抱きしめてた。 わかっかなあ。わかんねえだろうなあ。 俺と大してタッパも変わんねえ。(でも出逢ってから何年か経って、俺とこいつの差は少し開いた) 時々びっくりするくらい口が悪い。(でもよく笑い、よく泣く、負けず嫌いな努力家だってことを俺は知ってる) 胸なんか真ッ平らだ。(でもなんか甘いにおいがする) そこに居るのはどっからどう見たって成人した立派な男だってのに。 その背中はすごく小さくて、すごく心細そうに見えた。 くすんだ夜の人ごみの中で、申し訳無さそうに、でも必死に光ってるみたいだった。 で、俺は無言でその向かいのソファ席にどっかり座って、目を丸くしてるそいつの耳からイヤフォンを引っこ抜いて手ェ引っ張って、「行くぞ」っつった。 黄瀬は笑ったよ。 そりゃあもう綺麗な顔で笑った。「うん」って子供みたいに頷いて、そんで言った。「待ってたっス」。 らしくないってわかってる。でも、この笑顔が見られるんだったら、この笑顔を見るためなら、俺は何でもするなって思ったんだ。俺が。この俺がだぞ。 けど俺はそういうのに慣れてない。どうやったら人を喜ばせられるかとかわかんねェし、考えるのもホント苦手だ。言葉にするのなんてもっと苦手だ。 だからせめてって、笑っちまうけど、それで手に取ったのが今日の花束。 まあ結果はこのザマなわけだが。あー参るわマジで。
「これを、青峰っちが……」 「そーだよ悪ィかよ」 「自分で、これくださいって……」 「そーだよ! コレと……この青いので、あとテキトーになんとかしてくれっつって!」 「う、ぇへ、あ、青峰っちが、青峰っちが、自分で、花屋で、俺にって、うぇへへへ」
お。笑った。なんかキモイ笑い方だけど。
「うっ、うぇ、うえ、うえええええええええ」 「と思ったら泣くんかい!?」 「だって! だってえええええ! あ゛お゛み゛ね゛っぢがああああああ!」
もう後半怪獣みてえなことになってっけど、とにかく黄瀬はびゃあびゃあ泣き始めて止まりゃしねえ。 仕方ないから抱き寄せて頭を撫でてやると、鼻をすする音が余計ひどくなった。
「ごめ、ごめんなさい青峰っちいいい! 俺びっくりして、なんか、青峰っち気まずそうにするし、そんで、ついあんなこと言っちゃって……!」 「……――そうだよな」
そういえば、そうだったわ。
「へっ?」 「そうだよなァ黄瀬くんよォ……! 俺がウ・ワ・キ、だってェ? あァ? よくもそんなこと言ってくれたなァ?」 「ひいっ! あ、あお、みねっ、ち?」
ようやく、今ようやく俺は安心して両手の血管を手放し、怒りを思う存分にほとばしらせた。
「この詫びは俺が満足するまでしーっかりしてもらうからな黄瀬ェエエエエ!」 「ぎゃあーっ! 待って! 待って青峰っち!」
くびすじにかぶりついた俺の頭をぐいぐい押し返しながら、黄瀬は哀れな子羊みたいに震える声で叫んだ。
「せめて、この花、水に入れさせて下さいっスううう!」
青峰っちがくれた、大事な大事なプレゼントだから、と。 黄瀬は、涙をいっぱいためた目を細めて、また俺の好きなあの笑顔で言うのだった。
参るわ。
マジで。
★
☆
あのね青峰っち。 俺、昔は渋谷の街が好きだったんス。 だって、俺みたいなんがウロウロしててもあんまりみんな気にしないし、基本他人に無関心だし。 なのに誰もが一人ぼっちじゃないってフリしてるあの薄っぺらい感じが好きだった。 女の子と一緒いてもさ、なんか、突っ込んだ話ししてなくても、街ぶらついてるだけで話題あったしね。あの店がどーだとか、あの人の服がどーだとか。そういうどうでもいいこと。 でも、青峰っちと一緒になって、なんて寂しいトコなんだろうって思うようになったんス。 今まで一人で平気だったカフェも、一人で行ってたショップも、一人でのぼってた事務所までの坂道も。 青峰っちがいないと、寂しい。
――あの日、ホントはすごくこわかった。 居心地の良かったはずの夜のカフェのすみっこで、俺は嘘みたいに心細くて、このまま青峰っちが来なかったらどうしようってそわそわしてて。 誰かを待つってこんなに大変なことだったっけって思った。 でも珍しく慌てた感じの電話やメールが嬉しくて、大丈夫って、青峰っちに返信しながら自分にも言い聞かせてた。 だから、だからね。青峰っちが俺の向かい側にどすんて座った時、わあって叫んで抱きつきたいような気持ちになったんスよ。 抱きついたら、絶対声を上げて泣いてた。 だって青峰っち、顔怖いのに(たぶんどんな表情したらいいかわかんなかったんだろう)すっげえ申し訳無さそうな、泣きそうな、優しい目してんだもん。 ズルいっス。 そんなの、たまんなくなる。 わかるかなあ。わかんないだろうなあ。 ぶっきらぼうでいい加減で自分勝手で暴君で。(でも根はやさしくてまっすぐで、なんだかんだ面倒見がいいんス) 時々足腰立たなくなるくらい俺のこと好き放題する。(でもそうされたっていいくらい好きなんスよ) そんで相変わらず色が黒い。(でも青峰っちはそうじゃなくちゃ) そんな青峰っちが、俺を迎えに来てくれる。 俺の手を握ってくれる。 「行くぞ」って言って、俺と一緒に、家に帰ってくれる。 こんな幸せ、他にない。
青峰っちは俺とケッコンしてから、一生懸命俺になんかしようって思ってくれてるみたいスけど、そのままでいいんス。 ずっと昔からそうだった。 ただそこにいてくれりゃ、俺は頑張れる。 アンタが隣にいてくれるだけで、なにもかも十分なんだ。
「あおみねっ、ち、」
降り注ぐ乱暴なキスの雨。目の前に、俺の腕の中に、俺だけに夢中になってる青峰っちがいる。 それだけでパンクしそうだ。溺れる寸前みたいに肺がこまかくふるえて引きつった。
「あおみねっち、あおみねっち、」
すきだよだいすきだよあいしてるよ。でもそんなんじゃ足りない。言葉になんかあらわせない。この気持ちをどうしたらいいんだろう。 ひたすらバカみたいに青峰っちの名前を呼び続ける俺を、青峰っちは痛いくらいに抱きしめてがっちり手をつないでくれる。
「離すなよ」
離すわけねーよ。俺は握り返す。汗ですべっても、ゆびさきがしびれても、なにがあっても、離さない。
「黄瀬」
はい。
「お前、ホント俺のこと好きな」
なに当たり前のこと言ってるんスか。決まってんでしょ。知ってんでしょ。
「好きだよ」 「おう」 「青峰っちがすきだよ!」
すると、青峰っちはアホみたいに嬉しそうに、顔をくしゃくしゃにして笑うのだ。 俺の大好きなあの笑顔で。
20120923 Your smile makes me happy.
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