リトルグッバイ
恋人からの電話一本で飛んで行く男、と言えば都合のいい感じに聞こえるかもしれない。 全ての決着がついて、年が明けて、あと数日で学校が始まるという頃だった。 月森が携帯電話を開いて耳に押し当て一番最初に拾った音は、ぐす、というこもった音で、でもそこから伝わる空気の震えや冷えた呼気が頭の芯を痛くさせた。
「・・・どうした。陽介。」
存外おだやかな声で月森は尋ねた。花村は電話の向こうで少し戸惑ったようだった。 長い沈黙にも耐え、根気よく繰り返す。「どうした?」
『・・・オヤジと、喧嘩、した。』 「そうか。」 『・・・イキオイ余って家飛び出しちまって・・・』 「今どこだ?」 『学校・・・』 「学校!?」
さすがの月森もそれには驚き語尾が跳ねた。 堂島に正直に理由を説明し、もしかしたらそのまま花村を連れてくるか、泊まりになるかもと伝え家を出た。
「どうして学校なんだ。」 「だって・・・菜々子ちゃんとかいるし・・・、」
それよりも堂島が怖いのだろう。 凍えたリノリウムの床に座り込んでいる花村は、なんだか痛々しいほど小さく見える。
「ごめん。」
微かな声。
「こんな時間に・・・。」 「いいよ。」
涙でこわばった頬を拭きながら無理矢理笑おうとする花村の横に腰を下ろし、月森はその肩を抱いた。冷たくてこつこつしていて、細い。本人も気にしているが、大して身長差があるわけでも無いのに二人並ぶと花村の方が随分と細く見られることが多かった。
「将来のこと色々考えててさ。」 「うん。」 「高校卒業したらまた向こうの方戻って一人暮らしして大学行きたいっつったら反対されて。『お前今まで勉強全然して来なかったのに何言ってんだ』って。」 「うん。」 「悔しかったけど・・・本当のことなんだよな。」 「・・・・・・」 「俺なんでも適当にやってそこそこできりゃいいって思ってたし、将来意外とどうにでもなんだろって思ってた。そのくせ、“普通”はイヤだとか思ってて・・・。いざ真剣に向き合おうとしたらなんかそんな自分にガッカリして、焦って、そんで、こう、わーっとなって、なんか・・・色々・・・」 「そうか。」 「今までこんな風に悩んだこともなくてさ、いや悩むの避けてたっつーか、お前が、」 「うん。」 「おまえ、が、」 「うん。俺が、」 「すごく、真っ直ぐで、俺の前歩いてて、このままじゃダメだって思って・・・、」 「うん。」 「俺結局お前に頼ってばっかで、も、すぐ、お前、いなくなんのに・・・。」
遠くの街灯の光だけうっすらと入って来ている教室の中は、静かな蒼と黒に包まれている。 深海じみたそこで、花村は苦しそうに胸を震わせて言葉を吐き出した。
「怖ェよ。前はこんな風に思ったことなんてなかった。」
たくさんの喧騒と思い出に包まれたこの場所から、ただ一人が去るというだけでどうしてこんなにも空っぽになってしまうのか。
「いいことだ。」 「よくねえ。」
笑った拍子に花村の前が白く濁る。それくらい今日の夜は冷え込んでいた。全てが動きを止め、息を詰めて自分たちを見守っているような気がした。
「寒い。」
「もうちょっと着て来いよ。部屋着だろ?これ。」 「だって・・・とにかく家にいたくなかったんだよ・・・。」 「どうする。帰る?ウチに来る?」 「・・・どっちも・・・やだ・・・。」
帰りたくは無い、でも依存したくも無い。 そんな都合の良い我侭でさえ、月森は愛しく思う。 大人ぶった幼稚さ。傷つくことをひどく懼れる癖して一人では生きていけない。
「くっついたらあったかくなる。」 「!?く、くっついたらって、うわ、わ、」
膝の上に向かい合わせに抱き上げ、極力体が離れないような体勢でくちづけた。花村の薄いくちびるはぎょっとするほど冷えていて、何度も何度も元の温度を取り戻すまで触れ合わせる必要があった。
「ん、うう、・・・ぅあ!」
くちびるは合わせたまま、月森の手が花村の股座を揉みしだく。瞬間、花村は背を丸めて月森の頸にしがみつき、肩口へと顔をうずめる。
「顔、見えない。」 「見せない、っ!」
ボクサーパンツからひっぱりだしたそれはあっという間に先走りをこぼし始めた。静寂に支配された空間に、水音が断続的に響く。
「ヤダ、よぉ・・・、」 「何が?」 「おと、はず、かし、ッ・・・」 「陽介はかわいいな。」 「いくねえ!大体、なんでこーなるんだよっ!」 「いや、つい。」 「つい、とかどーよ!?あ、ゃ、ちょっ、」
本人の意思とはまるで関係無しに揺らめく腰をてのひらでゆったりとさすりながら、月森は細い髪に指を絡ませた。 コートを着こんでいるから肩の感覚が鈍くてわからないけれど、花村は泣いているだろうか。一人で涙しないで欲しい。
「あっ、ア、―っく!も、つきもりっ・・・!」
不意に声が近くなったのに気付き、月森は首を捻る。目の前に濡れた琥珀色があった。 上気した頬と落ちてきた前髪の合間にきらめく瞳は、いつも何かを訴えるような色をしていて見るたびに切なくなる。 胸を締め付けられるような感じに引きずられて、指先に力がこもる。敏感な性器の先端をこじられ、花村が高く鳴いた。
「―!!!・・・んっ、・・・っ」
腕の中でのた打つ肢体を力いっぱい抱き締めると、滲んだ瞳が心地良さげに細まった。
「やばい・・・気持ちいい。」
呟いたあとに、ごめんな、花村はまたそう言った。
「ごめんじゃない。」
月森の眉間に皺が寄る。 花村は呆れるほど愚かで優しい。 自己の確立を望んで自身を主張しようとした他の仲間の影に比べて、花村の影はどこかはっきりしない印象を受けた。(まあ後続の皆様方のインパクトが尋常じゃなかったというのも無きにしは在らずなのだけど。) 人より上に行きたくても、人を蹴落とす勇気も貪欲さも無い。自分に自信があるように見えて実は無い。面倒だと言いながら人との摩擦を避けて、結局自分をすり減らしてる。
「そういう時はな、ありがとうって言うんだよ。」
額を押し付けてくる月森を、花村は先生に初めて言葉を習う幼稚園児ばりの顔で見つめていた。
「う・・・ん・・・。」
了解というよりは、己を納得させるための首肯。
「うん・・・わかった。」 「俺は陽介が好きだから来たの。迷惑だったらちゃんと言うし。でも迷惑とかありえないから。」 「ん。」 「いいか?不安になったら言えばいい。怖かったら手を握ればいいんだよ。」 「う、ん。」
花村の目じりにみるみるうちに大きな涙の粒が盛り上がってくるのを見ながら、月森は珍しく白い歯を見せて悪戯っぽく笑った。
「帰ったら続きしような。」 「う。」
泣き顔を見るのも、もう何度目になるだろう。別れの時にはきっと泣かない。花村は誰よりも人に気を遣わせるのを嫌がる人間だから、みんなの前でなんか泣けないのだ。
「甘えられると、俺が嬉しいんだよ。」
だからさよならの前に、自分の腕の中でだけは存分に泣けばいい。
「だって好きなんだからさ。」
花村はおおきく頷いて、ありがとう、と。 なにもかも、それだけで十分だった。
END 20081024
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