誰も知らない


膝をつかなければ目線が合わないほどの頼りなく小さな子はすこし緊張でかたくなった面持ちで私の顔を見て「なは、なんだ。」とたどたどしくたずねた。
名は何だ。
片倉小十郎景綱にございます。
たとえば其処に契約というものが存在したのなら、あの瞬間がそうだったのだろう。
幼い唇が私の名を呼んだ時。

『こじゅうろう。』

はい、と答えた。なぜだか涙が出そうになった。
まだ人生の最初の方のうちに、既に主がいること。
一生護るべきものができたこと。
其れは取りようによっては縛り付けられることと同意なのかもしれない。
だがわずらわしいなどとは微塵も思わなかった。
誇らしくて嬉しくて、あまりにも幸せだった。
目の前にいる幼子を、護るのだ。自分が。これから死ぬまで。
そう思うとどうしようもなく気持ちが昂揚して、でもそれを表現する術を持つほどに器用でも大人でもなくて、ただ幼い主のやわらかな手を壊さないようにそっと握った。


(そんなことは誰も知らない。)


「小十郎、平気か?」

心配そうに覗き込んでくる顔がなんだか不思議に思える。いつもは逆が多かったはずであるのに。幼い頃政宗様はあまり丈夫とは言えない子供で、よく熱を出した。その度に心配する成実の手をひいてその枕元に座り、声をかけた。見上げてくる政宗様の瞳がこちらの姿を捉えると、くるしげな呼吸の下から我々の名を呼び、そうしてすこし、笑った。その笑顔を思い出して知らず微笑みそうになりながら、大丈夫です、と返す。

「そのようなお顔をなされますな。」

困惑と怒りに掻き乱された双眸の色に、思わずそう言うと政宗様は憮然とした表情になって腕組みをする。

「―俺はああいうやり方が一番好かねえんだ。小十郎もわかんだろ?」
「わかりますが逸ってはいけませぬ。この小十郎、斯様な傷はすぐに治してみせます故。」
「・・・・・・」

ふ、と掛け布団越しに胸の―正確には傷を負った場所の上に手が伸べられた。二三度やさしくさする感触。

「政宗様?」
「・・・っ、・・・、」

泣いてはいない、けれども今になってその刻の感情が腹の奥からこみ上げて来たようだった。肝を冷やしたんだぞ、というような唸りが咽喉の奥で握りつぶされたように見えた。捌ききれない其れに自分自身驚いたのかすぐに恥ずかし気に顔を伏せる仕草。耐え切れずに体を起こし腕を掴み引き寄せる。
ご無礼をお許し下さい、と言うと今更なんだと笑う音。逞しくなった体躯はそれでも俺の腕に容易におさまりこつこつとした骨の感触がした。薄い皮膚に唇をつけると熱かった。
小十郎、という小さな呼び声。

「ずっと、そばにいろ。」

それは、あまりにも微かな。だが光のような音色だった。


(そんなことは誰も知らない。)


「仕方ねえのさ、死は誰にでも訪れる。」

本当はその言葉を口にするたびに吐き気がする。なにが仕方ないことだろうか。たとえば今前を駆ける主が戦で落命したとして、そうしたら自分はきっとその軍の兵を一人残らず殺したいと思うだろう。(殺してしまうかもしれない。きっと、殺しても殺し足りない。)
この世の中で武士として生まれて人を殺めずに生きていくことができるか、できるわけがない。だからといって殺したいわけではない、なのに確かに哂いながら刀を握る自分がいる。命のやりとりを、ぎりぎりの攻防を、焼き切れるような闘いを求めている自分がいる。もしかしたら俺はとっくの昔におかしいのかもしれない。

「小十郎。」

はい、と答える。
本当はなんだっていい。俺を此処に繋ぎ止めているのはこの方であって、俺が生きるのはこの方のためだ。
その為に幾千幾万の命を奪おうとも後悔はしない、後悔などすれば俺が殺したそいつらに悪い。それほどの覚悟も無く俺たちを殺したのかと罵られるだろう。
あの日握られた手を、この小十郎の全てが果てるまで離さないと決めた。誰にも譲らない。誰にも渡さない。

ただひとつ、俺の命。俺の魂。

俺のあるじ。

この気持ちが他の誰かにわかるはずがない。わかるわけがない。わかってたまるか。


誰も知らない。


知らなくて良いのだ。




俺がすべて、墓まで持って行く。




END 20060821