走る



両手に槍を持って一息に振るうと、寸時呼吸を忘れる。体内が真っ白になる。
空を切る重い手ごたえを感じ、幸村は眼前でびたりと腕を止めた。
昨晩降った雨の名残は細々と軒から垂れており、その雫が刃先に一旦割られて再び身を結びながら地に落ちるのがはっきりと見てとれた。

「ちょっと真田の旦那!まだそんなんやっちゃ駄目!」

怒声に身を竦め隠せもしない長槍を体の後ろに回すのと、一直線に落下してきた佐助が鮮やかな着地を決めたのはほぼ同時で、幸村は気恥ずかしそうに緩く笑う。

「はは、つい・・・その・・・我慢できず。」
「ガマンしてよお〜まったく。まだまだまだまだ怪我人なんだよ!?わかってんの!?」
「う・・・す・・・すまぬ。」
「すまんですんだら俺達ゃ必要ないし!戦も起こらないでしょうが!」
「うむ!もっともだ!」
「感心すんな!」

初夏の戦いで独眼竜に貫かれた胸の傷はまだ癒えない。
そもそも生きているのが不思議というようなひどい怪我だったので、幸村は一ヶ月近くも床に臥した。そして驚異的な回復力でもって復活した。
これでも幸村にしてみれば耐えに耐え抜いて養生したつもりなのである。寝ているのは退屈だった。毎夜あの闘い、あの斃れる一瞬の光景を夢に見た。
命を失うかもしれないという、常人には最も恐怖すべきはずの時を繰り返し夢見ては、身を焦がすような昂奮や想いと共に目覚めた。
不思議と幸村には死ぬかもしれないという懼れは無く、いつ起きられるか、いつ槍を握れるか、いつあの隻眼の男と再会できるかばかりを考えていた。
ここ数日は佐助の目を盗んではちょろちょろと外に出たり鍛錬をしたりしている。そうでもしなければ別の意味でまた寝込んでしまいそうだった。

「政宗殿は・・・どうされているだろうか。」

紅蓮の鬼と恐れられる猛将、あの独眼竜も好敵手と認めた真田幸村なのだから一方的にやられたわけでは無く、政宗も同様に深い傷を負って今は大人しく奥州に篭っているはずだ。

「会いたいなあ。」

幸村は政宗のことが好きで仕方が無い。最早これは周知の事実となっている。
どこが好きなんだと聞かれれば全部、と臆面も無く言い放てるくらいには参っている。
ただやはり、特に好きなのは戦っている時の顔。鋭い隻眼が、たった一点に向けられ光るその表情。
刃をぶつけるだけの頃はそういう闘いの場でのみ見られるものと思っていた。
だが料理をする時、書をしたためる時、茶を点てる時も、似たような目をしていた。勿論、似て非なるものではあったけれども。
必死な様子が可愛らしいと思わず口にしてしまったら、政宗はCoolじゃねえとか何とか叫びながら幸村を一発ぶん殴り、耳まで真っ赤にして走り去った。
後から聞けば、未だかつてそんなことを政宗に向かって言ってのけたのは小十郎と幸村くらいだと言う。小十郎に関しては主に幼少期のことだから、今や奥州筆頭となり、いわゆる何ごともさらりと難なくこなすのが身上の政宗としては必死、などという単語は許しがたいものだったのだろう。
必死というか、一生懸命で、真剣で、なんだかこう、引き込まれてしまうわけで、と幸村はつたない言葉でそれこそ懸命に説明した。
政宗は納得いかない風に眉を顰めて唸っていたが、最後にはもういい、とちいさく一言呟いて幸村の口を手で塞いだ。



「政宗様、何を難しい顔をしておられるのですか。あまり長いこと起きておられるとお体に障りますぞ。」

北の地は既に冬の気配をあちらこちらに匂わせている。夜の闇は濃く、空気は枯れた草の香りを含み始めていた。

「ううわっ!びっくりした!気配殺して近づくなよ小十郎!」
「はて。そんなに忍び寄ったつもりでは無かったんですが・・・政宗様が夢中になりすぎだったのでは?」

途端に政宗は文机の上の紙をごしゃごしゃと懐へ仕舞いこみ、「見たのか!?」歯を剥いて小十郎にとっては痛くも痒くもない威嚇をした。

「見てません。しかし見当はつきます。」

意地悪い笑み。政宗の髪を一房掬い、耳元で囁く。

「あの紅い餓鬼宛なんでしょう。」
「―!?」
「政宗様があんな顔する相手なんざ、俺かあいつしかいませんからね。」

この男、普段謙虚を装っていながらなんてことだと火照るくびすじに手をあてて身を竦ませる政宗を前に、小十郎は丁寧に辞儀をした。

「書き終えたらお申し付け下さい。大至急届けさせますから。」



「手紙でも送るか。」
「いいんじゃないですか。俺は旦那が大人しくしててくれるんだったら大歓迎ですよ。」

あまり使っていない墨と硯を引っ張り出す。

本当ならば走り出してしまいたい。けれど疼く足と傷痕を抑えて、今は耐えよう。


END 20070702