月
兜に構えている三日月はあまりにも細く尖っていて、引き絞られた弓のつるのようにいつか切れてしまいやしないかと思う。 月がでは無い、それを戴く彼がだ。 全てがやすりを当てていないむき出しの薄い硝子細工の縁のようにとげとげしく人を拒絶する。沢山の家臣に慕われ一国を治め奥州を統べても尚―
「単騎で敵本陣まで来るとは、まったく独眼竜の小僧、気でも触れたかと思うたわい。」 「まったくでございます。」 「して、どうであった。」 「はあ、一人でしたな。」
旦那、そりゃそのまんまでしょ!という佐助の呆れた声と信玄の訝しげな視線を受けて幸村は頬を赤らめて口ごもった。あ、いえ、そういう意味では無かったのですが失礼致しました。 そうですね、某はもう一度勝負しとう御座います。あの男とはどうしても決着がつけたいのです。そう取り繕うように言うのが精一杯だった。
暗い夜道でふと空を見上げたときに、爪の先ほどの微かな弓月を見つけたときのようなきもちだった。胸の中で熱さと冷たさが交互に明滅して自分でもよくわからぬ間に槍を振り上げ吠えかかった。あまりにも夢中でよく覚えていない。其の刀の切っ先が自分の胸元をかすめ六文銭を地面へばらまいたのや、繰り出された六爪の突きを受け止めたときの腕の創などあとになるまでまったく気付きもしなかった。 馬を駆って彼の背を追う間も、突然の天候の悪化に撤兵をする間も、信玄のもとを辞してきしきしと鳴る廊下を歩く今この間も、ずっと全身が疼いている。 もう一度会いたい。 戦いたい。 でもどうやって自分は彼に切りかかっただろうか。 何か言葉を交わしたが其れは一体何だったろうか。 どうにも記憶が濁として思い出せない。川に泳ぐ魚の姿は見えどもいざ手を伸ばしてみるとするりと逃げられるかのようにかたちが掴めない。
「いかん。こんなことでは。」
どちらにしろ今回は天候の為に決着がつかず仕舞いになってしまった。 不謹慎ではあるが、今は再び伊達との戦が始まるのを待たずにはいられない。とにかく心を落ち着けるためにもと自室に戻って愛槍を手にし、手入れをしようと腰を下ろした矢先、違和感に首を傾げる。 槍の切っ先が僅かにだが欠け飛んでしまっていた。まるで何か正面からひどく硬いものでも突いたような― 幸村はさっと顔色を変えて懐を探り出す。
「・・・やはり。」
呆然と呟いた幸村のたなごころに乗っているのは質素ながら細やかな細工が施されたくろがねの刀の鍔で、両端に穿っている穴に今は千切れているが皮紐が通してあるものだった。今更ながらに思い出さずとも、確かに伊達政宗の右眼を覆っていた鍔。幸村の脳裏にその時の光景が怒涛のように押し寄せてくる。
六爪を傷つきながらもかろうじて受けた幸村は、そのまま剛力でもって刀を一旦捻じ伏せ巻き上げた。すぐさま政宗の懐に突きを入れようとしたのだが、弾かれた勢いか彼の体は後ろに傾いで運悪く穂先は顔に向かった。 がぎん、という音が耳の中に蘇る。 一瞬、あの独眼竜は幼いともいえる驚き顔で幸村の顔を見、それから痛みと衝撃に眉を顰めながらも隻眼で吹き飛んだ眼帯の行方を追っていた。その様子を見てなぜか幸村は手を伸ばし、先にそれを奪い取った。そうしたら益々、彼は形容しがたい困惑とも怒りとも哀しみとも取れぬ表情になり何ごとかを叫んだ。
『Shit・・・!Give back!そいつを返しやがれ!』
幸村は返さなかった。理由は無い。本当に無かったのだ。ただ返したくなかった。 飛び掛ってくるかと思った政宗は踵を返し馬に跨り逃げ出し、今度は幸村が追って伊達の陣へと駆け込んだ。そこではもう返せと言われることは無かったが凄まじい勢いでかかってきた独眼竜の瞳は時折まるで恥じ入るように伏せられていた気がする。
『何故そのような顔をなさる。』
無言。二人の荒く熱い息だけが響いていた。
『何故。』
『かように美しいのに、』
言葉は最後まで継ぐことを許されずあまりにも凄まじい剣戟に断ち切られた。侮辱されたと彼は思ったのだろう。蒼い瞳が怒りに炙られて潤み輝いていた。喉元に刃が逼迫しているにも関わらず、幸村は見惚れた。長い前髪に隠された右の眼も見たいと思った。慇懃無礼な探る視線にいよいよ竜は激昂したようだったが無意識に応じていた槍の柄に頭部を殴打されて泥の上に転がる。鮮やかな青の陣羽織が汚らしい黒柿色に塗れ―あとは飛び込んできた伊達の家臣と乱戦になり、結局突如として襲った猛烈な雹雨と霧(ありゃあ俺じゃないからね、と佐助は言った)で双方撤退と相成った。 あれから独眼竜はどうしたのか、幸村には知る由もない。ただ其の右眼の上には新たな鍔が置かれているであろうことは容易に想像がついた。 冷たい鉄の塊をつよく握る。最初は諍い拒んでいた互いの温度が混じり慣れていくのをぼんやりと皮膚で感じて、幸村は大きく息を吸った。 もう一度会いたい。 戦いたい。 けれど、優しくしたい。 叶うならば抱きしめてみたい。
ふと顔を上げた。 滔々と黒く果てなく広がる夜空に、細い細い乳白色の月がふるえるように光を零している。
「・・・やはり、一人であったな。」
それは彼に抱いた初めの、そしてたった一つの。
「今宵は月が美しい。」
そう口にして、幸村は今にも泣きそうな顔で破顔した。
END 20060714
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