翡翠


全身に、鉄錆の様な血のにおいと焼け焦げた肉のにおいと、とにかくありとあらゆる死臭がこびりついていた。常人が嗅いだらそれだけで気絶しそうなのだろうと思う。今は最早自分の鼻も麻痺してしまってよくわからないが。
勝鬨が遠くからまるで潮騒のように押し寄せては政宗の体を包んだ。応えることはもとより立ち上がる気力も体力も残ってはいないし、彼一人随分と陣から離れたところまで来てしまっていた。また小十郎に渋い顔をされるのだろうと思うと面倒ではあるけれどもこの状況ではそれさえも懐かしく笑いを誘うほどだった。

「おい・・・生きてっか・・・。」

同じく横に襤褸切れのように横たわる紅い塊を鷹揚に足で揺さぶる。ぐうぅ、という獣のような唸り声に、政宗は大きく息を吐いた。

「・・・だて、まさむね・・・?」
「俺の勝ちだ。真田幸村。」

返事の変わりに彼はごろりと仰向けになった。煤と泥と血に塗れた顔の中、それでも爛々と瑪瑙の色をした瞳が竜を見据えている。其処に敵意や悪意は無い。

「某は・・・負けたのか。」

どこか爽快とさえ思える声色が明け方の風にゆうるりと流れていく。
どちらかといえばお互い出遭えば怒鳴りあい叫びあい刃を交えてばかりだったから、こうして穏やかに言葉を交わすなど珍しいことだ。だからその声は思いの外政宗の耳に心地良く落ちて染みた。

「やはり奥州の独眼竜は素晴らしい武士であった。某もまだまだということなのだな。」

そう言って彼は少年のように笑う。
へんなやつだ、そう思う政宗自身も気付けば笑っていた。
軋む体を起こすと胸の下から腹にかけて激痛が走る。肋骨を二三本持って行かれたらしい。恐ろしい男だ。無様に呻くことはすんでのところで避けられたが思わず脇腹を庇うようにおさえた。幸村がどうしたのかと慌てて同様に起き上がろうとしたのが見えたがそれは叶わなかったようだ。幸村の腹にも刀創がある。止血はしたが縫合はまだだから、今のでまた傷口が開いてしまったかもしれない。

「―Ha!これじゃあしばらく政に支障が出やがんな。お前と違って俺は忙しいんだぜ?」
「な、そ、それは、っ、ぐ、」
「寝とけよ。あ〜あ!こんなとこまで来ちまってお互い動けねえんじゃどうしようもねえ。
二人でじっと助けを待つってのもなあ〜。」
「う、も、もうしわけ・・・」

政宗の言っているのは半ばあてつけというかやつあたりというか、つまるところからかっているのだが、それでも釈然としない面持ちながら謝辞を述べようとするところが可笑しくて政宗は腹が痛むにも関わらず再び笑ってしまった。

「バカか。本気でやりあったんだからこれくらい当然だろ。
・・・まあ、そうだな。責任はとってもらってもいいかもな。」
「責任、とは、」

敗軍の将として腹を切って詫びろということだとでも思ったに違いない。
急に厳しくなった幸村の顔つきを見て、政宗はにじり寄りその額を叩いた。あだ、と間抜けな声と状況を把握しきれない子犬のような眼差しに傷が無かったら耐え切れず声を上げて笑っていただろう。

「俺はこの天下を統べてみせる。―・・・お前も、手伝え。」

肺が澄んだ空気に満たされてはちきれそうだった。
慣れない言葉を吐いたせいか、はたまた痛みか興奮か、ぶるりとひとつ胴ぶるいをして政宗は木々の波が途絶え山並みの望める方に目をやった。正直なところ幸村の反応を窺うのがこわくてぶっきらぼうに言い捨てたのだ。

「・・・某は・・・お館様の天下を見るのが夢でした。」

その信玄率いる武田軍は伊達軍に負けた。
極力殺さず協力を求めろと伝えてあるから、政宗の命に忠実な部下達は任務を遂行しているだろう。幸村の信玄に対する忠孝(忠犬と言っても大差ないかもしれない)ぶりは知らぬものはいない。己の命は信玄の為に、信玄の夢こそ己の夢。まったく呆れるほどの武士道の貫き様、政宗はそれが少し憎い。同時にその夢を自分の手が奪ったのだと思うと知らず胸の奥が疼いた。


「なれど、政宗殿、貴殿の統べる天下ならば某も見とうございます。」


今こいつと目を合わせたら、きっと自分は泣いてしまう。
だから前を挑み見た。


「Look.Here is our home.」


異国語はわからないが、政宗の指差す方を幸村も見る。
鴇、桜鼠、水、灰白といった淡く静かな色たちが濃密な山々の稜線を縁取り、川面がまるで内から発光するかのようにうすぼんやりと輝いていた。どこかで鳥の囀りも聞こえる。
幸村の感嘆の溜息を耳にしながら政宗は遂にその時が来たかと思ったが、鳥にはなりそこなっちまったなあとふと考えた。ああまったく、ならなくて良かった。空からこの国を見たならば自分はきっと後悔しただろう。
どうしてもっとその足でこの地を踏みしめておかなかったのか。どうしてその手でこの世界に触れておかなかったのかと啼鳴したに違いない。
今は大地にいることが誇らしい。
自分を慕う家臣がいる、護るべき家と国がある、そして隣には先ほどまで殺し合いをしていたはずの好敵手がいる。
百年続いた夜が、明けたような清々しさだった。



「幸村・・・この国は、美しいな。」




大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 大和しうるはし (古事記歌謡)


END 20060716