All right.My right.
「ふえっ、くちっ!」
「「・・・・・・・・・・・・」」
その奇妙な音にお互いが振り返ったところ視線がぶつかった。政宗は気恥ずかしさから見てんじゃねーよ!とばかりにメンチを切ってみたのだがそれが通用する男では無いというか通用するわけが無い。案の定政宗向かって一直線に廊下を歩いてくる。
「そのような格好でうろうろされるからです。」
薄物一枚で羽織も無し。髪の毛は荒く拭いただけで時折裾の方から水滴が滴り落ちている。 秋口といってもこの地方の夜の冷え込みは厳しい。清んだ肌は既に外気に晒されて色を失いかけているが、頬だけが上気してほんのりと紅い。
「No.これはだな・・・!」 「なにが”No”なのか存じ上げませんがさっさと部屋へお戻り下さい。今拭くものをお持ちします。」 「ちがう!急ぎの用事っつーか・・・、今それどころじゃねえんだよっ!」 「と、仰いますと?」 「A゛hーっっ」
尋ねる自分の言葉も耳に入らない様子で政宗が上げた悲鳴(?)に小十郎が眉を顰めた。
「Shit!それは玩具じゃねえんだっ!小十郎!お前も手伝え!」
そう叫んで走り出す先を見れば茶虎の毛玉・・・ではなく子猫が政宗の気に入っている髪結い紐を咥えて走っていくところだった。別に錦糸の紐だけならばどうということは無いのだが其れの両端には美しい瑠璃の飾りが付いている。目の覚めるような深く鮮やかな群青色とやわらかな金の生地の組み合わせは彼が戦場で身につける支度と同じだ。 とにかくその紐をどこから紛れ込んだのか(そもそもまさか湯殿に紛れ込んだのか?)あの虎猫が取って行ったらしい。まるで怒る政宗をからかうかのようにぴょこぴょこと走る姿を追って小十郎も歩き出した。(大の男が二人で走ってはさすがに肝の据わった猫でも恐れを成すだろう)
「よ〜しよし。A good boy.」
政宗様、猫に異国語を使っても余計に効果が無いだけなのではありませんか、などと冷静に心の中で声をかけながら小十郎はしゃがみこんでちっちと舌を鳴らす主の後ろに控えている。 虎猫はいよいよ興に乗って紐を齧ったり前足で押さえて後ろ足で蹴ったりとそれはもうご無体な仕打ちをし放題で、小十郎からは政宗の旋毛(二つあるうちの後ろのほうだ)しか見えなかったがその端正な顔が憤怒で痙攣しているであろうことは容易に想像がついた。 既に紐自体は土くれに塗れて薄汚い色に変わってしまっている。 政宗はそれでも暫く彼なりの猫なで声を出して根気良く待った。小十郎は更に根気良く無言で待っていた。が、猫は見向きもしない。そのうちまた政宗がくしゃみをしたので、小十郎は一旦羽織を取りに戻らねばと腰を上げた。その時、
「・・・・・・Good.」
冥府の底から響くような声が夜闇を震わせた。 政宗はすっくと立ち上がって―何を思ったか己の着物の腰帯をばらりと解いた。 宙に翻る其れを見ながら小十郎は一瞬主君が憤激のあまりにどうにかなったのかと思ったが、次に目の前で繰り広げられた光景は違う意味でどうにかしていた。
「Come on!Hey!」
前が肌蹴るのにも構わず、政宗はその帯をぱたぱたと振り始めた。生き物のように右へ、左へ。猫は初めて政宗に(正確には政宗の持っているものに)興味を示した。耳と髭をぴんと立たせ、明らかに手元の紐からそちらへと気をとられている。 そのうち起き上がり、改めて姿勢を低く取り、尻を細かく動かして政宗の帯目がけてとびかかった。
「小十郎!」
言われるまでも無く小十郎は猫と入れ替わりに其処に飛び出して既に何かの物体と化してしまっている泥だらけの髪結い紐を拾い上げた。
「Ha!Got it!・・・ってコラてめっ、かじるな!爪を立てるな!」
敵拠点を征圧したと言わんばかりに拳を突き上げた政宗の手の帯に、猫は遠慮なく拳を繰り出している。隙を見て引き揚げると今度は何が来るのかと期待の眼差しで見上げてくる始末だ。その警戒心の無さと無邪気さに漸く政宗は相手が子猫であるということを思い出したのか爽快に笑った。
「やってくれるぜ。独眼竜が猫に遊ばれたなんざ誰にも言えねえな。」
そう言って体に手を伸ばしても抵抗は無い。よほど人馴れしているのかはたまた運良く人を嫌うような仕打ちを受けずに来たのか、一時の興奮も納まった様子の虎猫は大人しく政宗の手に包まれ、あまつさえ咽喉をころころと鳴らし始めた。愛らしさに目を細めると、不意にばさりと肩に重みがかかり政宗は驚いて振り向いた。
「お風邪を召します。」
小十郎が自分の羽織をかけたのだった。いよいよ下がって来た模様の気温と動き回ったことでうっすら汗をかいた体のことを考えて、多少の躊躇はあるものの政宗は素直に好意を受け入れる。それから帯を直してくれる大きな手の熱さに僅かばかり身震いした。(ついでに己のあられもない格好にも今になって赤面した)
「・・・あったけえな。」
胸元で弛緩している猫の温度と羽織に残る小十郎の温もりが冷たくなりかけていた皮膚を通して浸み込んでくる。 心地良さに知らず細く長い息が唇から流れ出た。
「紐、駄目ンなっちまった。玉に瑕は?」 「片方ひびが。こちらはまた新しいものに替えれば良いでしょう。」
小十郎の手に握られた紐と瑠璃玉のあまりの惨状を目にして途端に政宗の顔が歪む。
「・・・―俺は、それが良かったんだ。」 「政宗様はもっと良いものを沢山お持ちでしょう。」 「・・・だって、それは、―それは、・・・・・・だ。」
苦々しげに言う姿は駄々をこねる子供のようにも見える。あまりに弱い呟きに小十郎はなんですか?と先を促した。
「・・・小十郎がくれたヤツだ。」
今度は拗ねたように。 お前はそんなことも忘れたのか、と言わんばかりにつんと顎を上げ政宗はさっさと自室への道を引き返す。 小十郎にももしや、という予感はあった。だが本当にそうだとは思わなかった。 そして今この場で彼がそこまで口にするとも。
「政宗様。」
声が心なしか上ずった気がした。政宗は前を向いたまま立ち止まる。
「政宗様。」
もう一度しっかりと確かめるように呼んだ。 首だけを微かに傾け小十郎を見返す姿はどこか心細げで十年の時を遡ったようでもある。
「一つ無事なら、それで十分です。」
抱きしめるような、宥めるような音だった。 くしゃりと、政宗の顔が泣くように歪んで、けれども口元には笑み。 片手で猫を抱き直し、小十郎から髪紐を奪うと天を仰ぐ。
「That's right.そうだった。それで十分だ。」
掌の瑠璃は月光を受けて夏の空の天辺がひとしずく降ってきたような色をしている。 小十郎の無骨な指が其れをじっと見つめる政宗の、右の目のふちを撫ぜた。
「それに・・・小十郎は政宗様がお望みなら何度でも、何でも差し出します。」
わざとだとか、粋だとか、そういうのは関係ない。だから質が悪い。あくまで真面目に真正面から告げられて、政宗は彼にしては珍しく呆けた顔で立ち尽くした。 立て続けにこの男は何てことを言うのだろう。お風邪を召します、再度言われ引きずられるように手をひかれる間、どんどんと鉄瓶の湯が沸騰するように自分の体温が上がっていくのを感じながら政宗は、懐ですっかり安心しきっている子猫に声なく語りかける。
わかるか、これが俺の右眼だ。俺の大事なもの。俺の宝だ。
猫は政宗を見てにゃあと鳴いた。
END 20060723
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