SLAP THAT NAUGHTY BODY (前編)



新月の湖面のように磨き上げられた漆黒の車の扉が静かにとじた。

「お疲れ様です。」

象牙色のシートに身を沈めた青年は端正な顔立ちと不ぞろいに切られた光に当てるとほのかに鳶色に見える蝋色の髪、すらりとした体つきで今時の若者といった風情だったが、上質な生地で仕立てられたダークスーツや右眼にしている眼帯に加えて相手を射殺しそうな鋭利さを潜めた眼光がそこにただならぬ気配と品を添えていた。
彼が若干十九歳にして奥州会の頭、伊達政宗。
その政宗に、運転席に乗り込みながら改めて側近である片倉小十郎が声をかける。歳は政宗より十ほど上で、見るからに数多の修羅場をくぐってきたような、スーツ姿も板についた屈強な体躯と面構えをしている。
見慣れた彼の顔がひどく懐かしく感じると同時に心を落ち着かせるようで、ようやく政宗の肩の力が抜けていく。頭として正式に余所の組を取り仕切る人々に挨拶をしたのはこれが初。
既に歳は七十から八十のお歴々ばかりだが、いつも父と和やかに話していた雰囲気とはまるで違う。穏やかな口調の中に時折混ざる鋭さは、まるで真剣をとって戦っているような錯覚さえ起こさせた。ああいうのが本物なのだと血が騒いだ反面、これから自分が飛び込む世界の底のなさにほんの僅かだが寒気を覚えずにはいられない。

「今更、だけどな。」
「何か仰いましたか?」
「いーや。これからは毎日が楽しいpartyだなって思っただけさ。」
「・・・これまでと同じようになさっていれば良いのです。」

小十郎の低くゆったりとした声と、ふと鼻腔に流れ込んできたレザーの匂いがとがりきった神経を一気に宥める。後部座席の肘掛のところに備え付けられているオーディオセットのコントロールパネルをいじりながら政宗は小十郎の方にすこし身を乗り出して言った。

「なあ。ちょっとどっか走らせねえか。」
「既に向かっております。いつもの道で・・・今日は少し上まで上ってみましょう。」
「Fantastic!流石だぜ小十郎。」

ぱきんと指を鳴らして上機嫌に笑えば小十郎も微笑む。

しばらく車内はアスファルトの上をタイヤが滑る静かな音とアイルランドの女性の歌声だけとなった。
普段は歳相応に流行の音楽をはじめとしたロックだのジャズだの聴くが、たまにはクラシックやこういったものも聴く。特にこの透明な泉の水を一本の弦にしたような女の声は政宗のお気に入りだ。
茫とフルスモークの窓硝子の向こうの夜景を見れば、くすんだ色彩の膜に落とし込まれた街灯とネオンサインがふるぼけた半貴石のように連なっている。
もうすぐ深夜零時になろうとしていた。




ならだかな山道の上には公園と、気象館という小さな施設がある。その脇の奥まった広い駐車スペースに車を停め、二人は外へ出た。
細い歩道を行き頂上を目指す。
体を覆う選び抜かれた布の擦れ合う音も、革靴が砂利を踏んで軽やかに軋むのも、今は煩わしいだけだ。はだしになりたい、と政宗は思ったがそんなことができるわけもなく、ただ階段を上る。小十郎も黙って後から従った。

「Ah〜・・・いい風だ。」

既に九月になって夜は上着が欠かせないほどの寒さである。だが街が一望できるところに辿り着くころには大した坂では無いとはいえ、額には汗、ジャケットの中には熱がこもり脱がずにはいられない有様になっていた。別にきつくも小さくもないボタンを外す手がもたついて、そこでようやく政宗は手の震えに気付いた。

怖いんじゃない、これは―

どう表現したものかわからない。一番近い感覚は、

そうだ、昂ぶってるんだ。

怖れが無いと言えば嘘になる。けれども幼少の頃からすべてを叩き込まれ、こうして生きるために生きてきた。
この朝の来ないような暗い世界で。

いよいよだ。もう戻れない。

「小十郎。」

柵に寄りかかり振り返る。下から煽るように吹き抜けた強風が髪をかき混ぜた。小十郎がすこし目を細めて、なにか眩しいものでも見るような目つきになる。
なんでしょう、政宗様。夜闇の静けさに似た声に主はゆっくりと唇を持ち上げた。

「俺はやってやるぜ。誰にも負けねえ。俺にしかできねえことが・・・この世界には山ほどある。」
「はい。」
「だから小十郎、・・・ついて来い。」

約束は嫌いだ、と彼はいつも言う。絶対という言葉も。
欲しいのは証拠だ。
忠誠を示すのならばその体で。事実で。
その明確さと、どこか不安な心を押し包んだ危うい強さを小十郎は知っている。
だからこそ、より守りたいという気持ちがつよくなるのだ。

「地の果てまでも、この小十郎がお供致します。政宗様。」

深い音がしんと冷え行く空気に溶けた。

「―ッha!上等だぜ!」

全身の痺れるような感覚に耐え切れずに鋭い犬歯で己の唇を噛み締めて、政宗は小十郎の横を通り過ぎ階段をたったと下りて行く。小十郎はゆったりとした足取りではあるが大股でそれに続き、主が到着して車の傍らで待とうとする前に追いつきドアを開けた。無言のまま政宗が乗り込むと音を極力立てないように閉める。
二人は視線を交わすことなくそれぞれが当然のように行動する。完璧なまでにつくられた、上に立つものと仕えるものの関係。
けれどもそれは繰り返されることによって染み付いた習慣のようなものでしかない。厚くもあれば薄くもある、ただ単純に形を維持するための枠だ。

エンジンのかかる音。車をバックさせようと上体をねじり後ろを見やった小十郎の瞳と傲然と腕組みをして座っている政宗の瞳がぶつかった。
アルミの板を隔てた其処はすでに”外”では無い。政宗の双眸の色も小十郎の表情も、先ほどとはまったく別のもの。

「ひでえ目してんなァ。小十郎。」

助手席のところに置いた左手に頬を押し付けながら言えば、ふ、というため息に似た呼気が小十郎の鼻から抜ける。

「そういう政宗様の方こそ。」
「否定しないぜ。ガマンできねえ。―今日はヤバい。わかんだろ?」
「わかっておりますよ。」

一旦政宗の方を向いていた顔がフロントガラスの方を向く。その横顔の傷痕に猫のように体を伸ばして口付ければ忍び笑う気配が舌から伝わってきた。

「―こちらが折角堪えようと思っていたものを。」
「、っ!」

腕をとられ中途半端な体勢だった政宗の体が前へのめった。そのまま、まるで布団でもずらすかのようにずるずると引き上げられながら、慌てて足だけで革靴をぬごうとしているのが我ながら滑稽で笑わずにはいられない。それでも良かった。無様でも何でも今、欲しい。
小十郎は自分の膝の上に横抱きにされるような格好でおさまった政宗の髪を右手でやさしく撫でながら、もう一方の手でその咽喉元にきちと締められたネクタイを緩め、一気に引き抜く。
しゅっという摩擦音とともにほのかに散った香りと熱に、政宗は眩暈を覚えてその頭を彼の胸にうずめた。


20060908



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