透明人間
政宗は文机の前に実に姿勢良く端座して筆を握っていた。紙にしたためているのは今晩の夕飯の献立だ。しかしどうにも書くべきものが思い浮かばない。いつもならばあれにしようかこれにしようかと楽しみながら考える時間がひどく苦痛で空虚なものに化してしまって、そのこと自体にも幾らかは動揺せずにはいられないのだが、もっとおそろしいのはそこに至らしめる原因である。
庭の烏が最近鳴かないのだ。
「・・・つまんねえだろうが。」
居たら居たで煩いだのお前の相手をしている暇は無いだの言っている政宗ではあったが、他人との激しい言葉の応酬を愉しむ彼としては回を重ねるごとにその相手である猿飛佐助の頭の回転の良さと返しの上手さ、そして同時に垣間見える人間臭さに少なからず愛着を抱くようになっていた。 それは佐助も同じなようで、わざわざ忍頭御自ら出向かなくとも良いような些細な事柄だろうと北の地まで足を伸ばし独眼竜に声をかける。話すときも随分と無邪気な笑みなど浮かべて、戦場での諦念や憤りを押し殺したような昏い面が嘘のようだと政宗は思っていた。それがここ数ヶ月ぱったり姿を現さない。気付けば日に何度も彼が降り立つはずの庭木を覗いていたり何かしら反応がないかと独り言を必要以上に繰り出したりしている。(これには政宗自身辟易した) なんたる失態!其れに今更気付いてしかも足を捕られているとは! 政宗にしてみればこれ以上ないほど無様な状態で、何が何でも認めたくない。 だのに考えないようにすればするほど何も手につかず、挙句の果てに薄紙の上にはぼたと大きな墨斑点まで作ってしまった。Shit!思わず悪態を付いて政宗は机に突っ伏して頭を乱暴に掻き毟る。そして暫しの沈黙の後、のっさり体を起こし顔を上げた時だった―
「だ〜んな!」 「!?!?!?!?」
政宗の咽喉はあまりの驚きに空気の玉をまるごと飲みこんでしまったらしく、小動物の鳴き声のような音を立てた。てのひらや耳裏、全身の隅々に一気に血が駆け巡るのを感じながら、次の瞬間は唸る右の拳が炸裂。佐助は軽々その大木も真っ二つにできそうな突きを避けて、危ないなあ、などと暢気に口元を綻ばせる。天井から蝙蝠のようにぶら下がりながら。 竜は仁王立ちになって叫んだ。
「てめえこの・・・猿飛ッ!」 「佐助って呼んでって言ってるじゃんよお。ね、独眼竜の旦那。」
佐助が、それはもうこれ以上ないほどに上機嫌なのを政宗も全身で感じとっている。声音、口調、表情、気配、どれもこれもが喜色に溢れていてこちらにまで伝染しそうな。だがその半分が己の間抜けな姿に因るものだと思うと絶対に許せない。
「悪趣味な・・・!いつから見てやがった?」 「えっと・・・机に向かったとこ。」
最初からじゃねえか!と政宗は心中絶叫した。 しかもこの忍、今までは忍んでいてもすぐわかると思っていたけれどもそれはおそらく意図的に手を抜いていたものだったらしい。薄々気付いてはいたが、いざとなるとここまで見事に騙されてしまうのか。人の気に過剰なほど敏感な政宗も舌を巻かずにはいられない。その点に関しては戦り甲斐のある相手として純粋に笑みさえ湧いてくる。ただどうにも心中複雑なために、頬を赤らめ眉間に深い皺を刻みつつ口だけ引き攣るように笑っているというおそろしい様相になってしまった。
「・・・旦那、すんごい顔になってるけど鏡見る?」 「No thank you・・・自分でもよくわかってる・・・!」 「・・・・・・いや〜、ほんと、久しぶりだね。」 「・・・・・・・・・久しぶり。」
今度は拗ねたように尖らせた唇からの呟き。佐助は地に滑り降りると肩を竦めて困ったように笑う。
「参ったなあ。ここまでの反応もらえるとは思ってなかった。」
最早何を言っても取り繕うどころか襤褸ばかり出そうで、政宗は言葉を失し突っ立ったまま冷たく硬い戦装束を纏った体に抱き締められた。土と風に混じって微かに漂う血の香りに自分の知らないところでこの男も闘っているのだということを改めて識る。 不器用に体躯を押し付けあうだけの抱擁は、けれど何ものにも代えがたい。どれくらいの時間が経ったのかわからなくなるほど、そして互いの心音がもう一つの心臓のように右胸に溶け込み始めるまでそうしていた。
「まったく・・・独眼竜も鈍ったもんだぜ。」
ようやく落ち着きを取り戻した政宗が自嘲気味に言って縁側へと佐助を導く。普段は専ら距離をとって対面―下手をすれば面を見せることさえせずに話しをしていたので、並んで座るとどうにも違和感がつきまとってどちらからともなく顔を見合わせる。
「いやいや、奥州は落ち着いてるみたいで。なによりじゃあないですか。」 「そっちはちいっと騒がしいな・・・。北条のジジイがまたなんかやったって?こっちの手を借りるまでもねえってことだったが。」 「そおなんだよ〜。オジサンそれで本領発揮の潜入作戦やってきたってわけ!まあさくっと済んだけど。」 「その件に関しては、だろ?」 「ま、ね。でも当分は大丈夫。・・・それでさ、独眼竜の旦那。」 「なんだよ。」 「ちょっと笑ってみてくれる?」 「Ha!?」
あくまでこのまま真剣なやりとりが続くのかと思いきや、佐助にとっては既に終わったこととしてあっさり片付けるべきものだったらしい。本当のところは武田の内情をあまり伊達側に伝えたくないからなのかもしれないが―とにかく突然の(今日は突然なことばかりだ)言葉の意味がわからずに頓狂な声が上がる。
「なんかさ、たまに思い出してたんだ。旦那の笑顔。」 「・・・気色悪ィもん思い出してんじゃねえよ。」
明らかに困惑して、けれどそれを気取られまいとするせいで余計に低くなってしまった声に政宗は再び顔を顰めた。
「前はさ、ちゃんと笑ったとこなんて見たことなかったし。多分俺もそんなん受け入れたくなかったと思うんだよ。だってほら、俺達ってすっごい仲悪いし。」 「現在形かよ。」 「あれ?過去形にしてくれる?」 「〜No.・・・してやんねえ。」 「あは、それは残念。」 「・・・・・・・・・」 「・・・けど段々こうしてるうちに、旦那、笑うようになったじゃん?」 「・・・・・・そうか?」 「そうなんだって。俺さ、初めて旦那が歯を見せてこっち向いて笑ったとき、結構感動したんだよね。」
佐助は饒舌だった。これは本当に、とても珍しいことで政宗はなにか不思議なものでも見るような目で隣に座る彼を見つめる。 言っていることは実際嘘では無い。最初はとにかく双方ともに警戒心と敵対心を剥き出しにしていて、佐助などよりにもよってあの幸村にもう少し穏やかに話せぬのか!と叱責されていたほどである。だというのにいつからともなく頻繁に言葉を交わすようになり、あまつさえ今では長らく会えないと寂しいとさえ思うのだ。一体どうなってしまったのだろう。
「俺達って多分似てるんだよ。」
否定しようと思ったが、何故かできない。
「あんたが人を喰ったような歪んだ笑い方してると俺もあんたに皮肉ばっか言うし、あんたが怒ってると俺も腹が立ってくる。」
どちらかというと華奢にさえ見える細く長い指が庭の小さな池を指差した。政宗が視線を移すとちらりと鮮やかな光が隻眼を射る。覗き込んでいるわけではないのに瞼の裏にゆったり尾をはためかせて泳ぐ大きな鯉の姿が横切った。
「だけどあの時は違った。」
清いものを選んで摂っている暇など無いからなにもかもを飲み込み腹の中に押し込んだ。吐き出す暇も無いままに身体はそれに慣れてしまった。政宗が佐助を見た時に、また佐助が政宗を見た時に感じた嫌悪の情は、向かい合った者の中に未だ溜まり続けている濁ったものを見抜いたからに違いない。 やはり、似ているが故に。
「びっくりするほど透明になったんだ。」
その言葉が胸に真っ直ぐに落ちてくる。落ちて触れた瞬間、まるですべての汚れを洗い流したかのように頭も心も真っ白になる。
「だから、思い出すワケ。自分がさ、ああもう駄目だって思った時に。このままじゃ黒くなっちゃうなあって思ったらさ、旦那の笑顔を。」
言って闇に生きる運命の忍は鮮やかに破顔する。それは胸を締め付けるように優しく穏やかで、政宗は咄嗟に天を仰いだ。
「馬鹿だなお前は!」 「そうだね。」 「本当に馬鹿だ。」 「うん。」 「馬鹿な・・・佐助、だ。」 「・・・うん。」
上を向いていないと何か零れて来てしまいそうだ。臨む空はどこまでも途方に暮れるほど透っていて、だからもう笑うしか無かった。
END 20061004
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