| kiss&cry
       
 沈む夕日を背に鳥の一群れが飛んで行く。美しく黒い影だけが切り絵のように空へと散った。
 
 「旦那、そっちじゃない。こっち」
 「う、」
 
 主の紅い上っ張りの襟首を掴んで、佐助はわざとらしく溜息を吐いてみせる。
 その仕草と表情の意味を図りかねているのであろう幸村は、好奇心半分恐ろしさ半分で井戸底を覗き込む子供のような顔をしていた。余談だが、幼少時代に幸村はそんなことをして井戸に一回、穴に二回、崖から三回ほど落ちたことがある。それでもこうして本日健康に生きていられるのは、生来からの頑健さと強運、そして涙ぐましいまでの佐助の努力のお陰だ。
 
 「ドサクサ紛れに竜の旦那のところ行こうったってそうはいきませんよ」
 
 期待に満ちた眸が一気に失望で塗り潰されるのを目前にして、佐助はすこしばかり苦い気持ちになった。
 自分はこれを、もう一度味わわなければいけないのかと思うとうんざりする。
 あの人は強がりなのでそりゃ好都合だ、うるさいのがいなくてせいせいすらァ、と笑うかもしれない。
 だがそれが余計に辛い。
 完璧を装う独眼竜の、知らなくても良いこころ内を、どうして自分ばかり見てしまうのだろう。
 わずかに肩を落とした主の背を押して、信玄の待つ方を指差し早く行くよう促す。その前に―
 
 「あ、旦那。ちょっと待って」
 「ん?―!?」
 「ほいっと。頂きました」
 「さ、佐助ぇええええええええええ〜!?」
 
 叫ぶ幸村に構うことなく、すぐに身を翻す。既にあたりの茜色は絶え、藍色の濃闇が頭上を覆いつつあった。
 
 「―というワケで、今回の逢瀬は残念ながらナシだから」
 「そりゃ好都合だ、うるさいのがいなくてせいせいすらァ」
 
 判で押したような独眼竜式模範解答が返ってきた。俺様、百点、とごちて笑う。
 湯浴みを終えた後なのか、着流しのまま脇息に半身を預けていた政宗は佐助の方を見ようともしない。
 
 「怒った?」
 「Ha?さっき言ったことが聞こえなかったのか?」
 「じゃあ、拗ねた?」
 「ぶっ殺すぞ」
 
 普段よりは随分と余裕が無く、汚い言葉。「殺す」のところの滑舌が悪くて「こおす」になりかかっているのは酒のせいか。
 
 「ぶっこおすぞ」
 「Ah!?」
 
 ほんのちいさく反芻したのを耳聡く聞きつけて、政宗は全身の毛を逆立たせる勢いで威嚇した。実際のところ、佐助にしてみれば子猫が唸っている程度のものだった。今の彼ならば、片手でねじふせられる。そんな風にさえ思える。
 
 「かなり酔ってる?」
 「・・・酔ってねえ」
 「どうすんのお。これで実は俺があんたを殺しに来たんだったら」
 「・・・わかりやすい挑発してんじゃねーよ」
 「そうですね」
 
 なんだかんだで、政宗は幸村に全幅の信頼を置いている。つまるところ、彼の命には絶対服従な佐助にも。しかし同時に、幸村が、また主の意思とは関係なく佐助一人が牙を剥いたとしても、いざとなれば容赦なく叩き潰す覚悟も持っている。
 
 「で、用件は」
 
 彼が背筋を伸ばすと、薄寒い初夏の空気が一層引き締まったように思えた。
 着物の袖から伸びる腕に浮く血管と筋の凹凸や、裾から覗くなめらかなくるぶしの丸みが灯明に照らされて鮮やかに佐助の瞳に飛び込んでくる。
 
 「伝言。『こたびはこのままご無礼致すが、是非梅の実が青く実る頃にはお会いしとうござる』だ〜ってよ」
 「・・・相変わらず微妙な言い回しをする奴だ」
 「もっと他に言いようがある気もするんだけどねえ。紫陽花とか、梅雨とか・・・でもまあこことウチとじゃ季節が微妙に違うし」
 「それはそうだけどよ。あいつ女にモテるわけ?」
 「え、それは意外に・・・ほら、逆にあんなんだから母性本能をくすぐられるお嬢さんやおばさま方がですね・・・」
 
 庭木の上にしゃがみこんだまま、佐助はしばらくここ最近の主の様子や伝えなくても良い日々の生活ぶりを政宗に教えてやった。
 政宗は興味が特にあるわけでもないんだがな、という表情を保ちつつも、だんだんと前のめりになって頷いたり笑ったりする。酒で若干血の巡った面に白い歯がこぼれるのが綺麗で、佐助の舌は調子よく回り続ける。
 そろそろ帰還の時だと腰を上げた頃には、月が中空を目ざして昇り始めていた。
 そこで初めて、忍はひらりと庭へと舞い降り、続けて音も無く縁側、室内へと飛び移った。政宗が止める暇も無い。(止める気もないのだろう。ただ少し立ち上がりやすいように片膝が動いたのがわかった)
 そのまま佐助は、政宗の唇に自分の唇を軽く押し当てて、「忘れてた。もうひとつお土産だよ」囁いた。
 
 「・・・なんのつもりだ」
 「ちゃんと真田の旦那のを奪ってきてあげたんだから」
 「お前経由だと意味がねえだろうがよ」
 「せめて気持ちだけでもってやつだって」
 
 じゃね。
 渦巻く風の向こう、別れの言葉に応えた政宗はゆるやかに笑んでいた。そのくちびるがや微かに、とてもやさしく、バカだな、と動いたように見えたけれども、何も見えなかったことにした。
 
 この口付けだけは自分のものにしてしまおう。佐助はひたすらに夜を駆けた。
 
 
 END 20070611
 
 
       
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