僕に力はないけれど
灯は既に消えてしまったが、今宵は幸いにして月が満ちている。 障子越しの淡い光に照らされ静かに上下する背中は確かに鍛え上げられた肉がついてはいるが、どことなく不安定な細さが消えない。背を丸めて眠っているせいで薄い皮膚を押し上げる尖った骨の形がよく見える。
「嘘つき・・・」
剥き出しになっていた肩に布団をかけてやりながら、慶次は苦く笑った。
「何が、『俺は壊れない』だよ・・・。」
血の気が失せた蒼白い頬にかかる髪を払うと小さな呻き声が起こったが、目を覚ましたわけではないようだ。またすぐに穏やかな寝息が響き出す。 もう発端が何だったかも忘れてしまった。とにかくその日、慶次はこれまで一度も政宗の前では語ることのなかった女性の名を口にした。
「ねねは、そんなんじゃない。」
今は亡き秀吉の妻、慶次の友人で―想い人だった。政宗も馬鹿では無い。そのくらいのことには気付いていたし、知っていた。奥州に居座る慶次を心配して文を寄越した前田夫婦とのやりとりの中からも、はっきりとではないにしろ慶次と秀吉の間に何が起こったかくらいは大方読み取ることができただろう。 だからあまり人の過去のことにこだわらない政宗としては、放っておくのが良いと話題に出すことも無かったのだけれど、この日、不意にぽつりと呟いたのだ。
「お前はその女を抱いたのか。」
あたたかく小さな体をそっと抱き締めたことなら、一度だけある。 秀吉ほどではないにしろ立派な体つきの慶次にしてみれば、すっぽりと腕におさまってしまう彼女はまるで細く透った飴か硝子製の細工のように感じられた。 けれども愛しさと憧れと、それからほんの少しの怖れを持って伸ばした手が触れたものは、思っていたよりずっと剛かった。 掻き抱く両腕の力強さに微塵も動揺することなく、真っ直ぐな瞳で慶次を見上げた。
『慶次、わたしね、秀吉と―』
「怖いんだろう。」
女の子って意外と頑丈だ。やわらかくて弾力があって、めげない。自分よりずっと剛い。 それでも、それでもあっという間に死んでしまった。死ぬときは誰だって一瞬で、花のように儚く散って終わる。 ああ、そう。怖いさ。怖いよ。もう何百回、何千回と夢に見た。 あのとき伸ばした手を、俺はひっこめなきゃよかった。駄目だったとしても、俺と一緒に居てくれって、言や良かった。 最低だと思うだろ。好きな子ひとり、護れないんだぜ。政宗、俺ァもう見たくねえんだよ。
朝に夕にと飽くほど好きだと言っておきながら、慶次は決して政宗に口付け以上のことをしようとはしなかった。 しなかったというよりも、できなかったのだ。
「恋、とお前はよく口にするが慶次、言っている本人が一番恋することに臆病ってのは・・・格好つかねえなァ?ああ、まったくCoolじゃねえ。」
歪んだくちびるから濁った紫煙を吐き出して、政宗は長い煙管をひと振るいした。
「来いよ。試してみりゃいい。俺ァ男だ。遠慮すんな。壊れやしないさ。 勿論―死にもしない。奥州筆頭独眼竜、舐めンなよ?You see?」
慶次は知っていた。政宗が今日に限ってどうしてそんなことを口走ったのか、そんな気になったのか。 先日あった戦のせいだ。其処で何があったかまではわからない。 ただ、城へ帰還した政宗から立ち昇る血の臭いに、慶次の肩に乗っていた夢吉が身を竦ませて怯えていた。 政宗はそれを見て、ほんのすこし寂しそうに微笑んだのだった。
「政宗・・・政宗は、嘘つきだよ。」
自分の上に跨って、初めてだというのにろくすっぽ慣らしもせずに慶次を受け入れて、政宗は泣いた。 ねねよりもずっと力のある、体の大きな、屈強な男。ここいらの人間なら名を知らぬ者はいない、戦国の戦さ人。 それなのに―と、慶次はこぶしを握り、横たわる政宗の左眼にくちびるを押し当てる。 それなのに、あまりにも危なっかしくて折れて砕けそうだと思った。
「・・・ごめんな。それでも・・・俺、・・・」
拒むことも耐えることもできずに、手を伸ばした。わかっていて、つけこんだ。 政宗が求めているやさしさを、自分が持っているふりをして抱き締めた。
「恋することが怖いんじゃない。恋なんか、とっくにしてる。一目会ったその日から。」
瞼を閉じれば今でも鮮やかに思い出せる。出逢った瞬間に、もう落ちた。
「でも、ねねも、秀吉も、半兵衛も、みんな、みんな。俺の好きな人は俺をおいていく。」
白い褥に波打つ鳶色の髪を手繰り、指に絡め、眉根を寄せてくちづけて笑う一つ目の竜。 目の奥が痺れ、顎の根元が痛くなるような笑顔。 愛しすぎて怖くなって、熱をぶつけて涙に曇らせた。 これ以上好きになって失って絶望するなんてまっぴらだし、これ以上好きになって彼女の記憶が薄れるのがおそろしい。
「そんな思いするくらいだったら、今あるモンを何度も何度も繰り返してる方がマシだ。」 「・・・勝手なこと、言いやがって・・・」 「!!!」
いつの間にやら政宗の片目が開き、上目遣いに慶次を睨みつけていた。
「この、よわむし。」 「弱虫でいい。」 「寂しがり。」 「それは政宗もじゃねえか。」 「甘えん坊。」 「えー!?それも政宗に言われることかなあ!?」 「ふ、くく・・・お前って意外にガキなのな。」 「な!政宗だってガキだろ!?さっきあんなに泣きじゃくってたくせに!」 「バッ!あれはお前が滅茶苦茶なことするからっ!あああ、あ、あんな、あんな格好っ・・・!」
言いさして政宗は羞恥に耳まで赤く染め、再び海老のように丸くなってしまう。 まあ、確かにさっきは無茶をした。慶次としてはそこは素直に反省したいところだ。
「お前は・・・ちょっとカッコつけすぎなんだよ・・・。俺の前ではもっと・・・普通でいろ。」 「いやだよ。好きな人の前ではかっこよくいたい。」
無様な顔を見られたくなくて、慶次は政宗を抱き寄せた。 そのままどことなく力をこめきれず迷う腕に、政宗の手が重なる。
「力いっぱい、やれよ。さっきみたいに。」 「無理だよ・・・。だって、」 「・・・捨てる必要なんか無い。持ってりゃいいさ。 お前がその女を、死ぬまで覚えててやればいい。 俺はそれをどうこう言いやしないし、だからって遠慮もしねえ。」
相手を威圧し突き刺すように鋭いくせして包み込み慈しむやさしさの滲む声音に、慶次はどんどん胸が熱くなって騒ぎ出すのを感じる。
「政宗が、好きなんだ。嘘じゃない。」 「知ってる。」 「なのに、だけど、」 「俺はいなくならねえ。」 「こんな俺でも政宗を支えられるかな。」 「支えてみせろ。」 「政宗を護れるかな。」 「護ってみせろ。」
今度こそ、壊さずに、壊れずに、拾い集めて、いけるかな。 涙声で呟かれた言葉に、政宗はイエス、と。
「いこうぜ、一緒に。」
そこでようやく、もしかしたら出逢って初めて、慶次の腕は何のためらいもなく、想いの限りに政宗のからだを抱いた。
END 20080121
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