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小さな窓から差し込む光の角度から察するに、朝の八時頃だろうか。 彼は鼻をひくつかせてあたりを探る。ほのかに芳ばしい麹の香りが漂っているので、朝食の時間がそろそろなのだろうと尻尾を揺らした。 そう――彼の尾てい骨のあたりからは大きく立派な黄金色の尻尾が生えている。先端だけ白い。どうやら狐のそれのようだった。 そして、耳も。 普通の人間では到底わかるはずもないほど微かな足音を聞きつけ、その大きな二つの耳はぴくぴくと動く。 しばらくして顔を覗かせたのは、まだ寒さの残る初春の空に似た水色の髪と瞳を持つ小柄な青年だった。
「黄瀬君」 「黒子っち! どしたんスか!? 今日ベンキョーの日じゃないっスよね?」
黄瀬、と呼ばれた狐の耳と尾を持つ彼は、黒子という青年の来訪を心から歓迎しているように見える。
「そうなんですが、ちょっと……黄瀬君のその後の容体が気になって。どうですか。前の傷は治りましたか?」 「はいっス! もうぜぇんぜんヘーキっスよ! 俺ガンジョーなんで、あれくらいはすーぐ治っちゃうっス!」
にこにこと話す黄瀬を、黒子もまた穏やかな面持ちで見つめて「そうですか、それは良かった」と頷いた。
「黒子っち黒子っち。何かおハナシして欲しーっス! お外のハナシ! あっ! 火神っちや、黒子っちのワンワンは元気っスか?」 「ええ。とても元気ですよ。そうですね、先日なんかは火神君が――」
傍から見れば仲の良い友人のような二人。 けれどもその二人を、太い木で出来た格子が隔てている。 黄瀬がいるのは、小さな座敷牢のような部屋だった。彼の足には枷が嵌められており、動くたびに冷たい鎖が音を立てる。
「黄瀬君」
ひとしきりおしゃべりに興じた後、黒子は静かに黄瀬の名を呼んだ。
「はい」
琥珀色の瞳が黒子を捉える。
「黄瀬君、君の新しいご主人様が見つかりましたよ」
獣の耳と尾を持つ青年は、一瞬身を竦ませ、それから果敢無く笑った。
★かみさまの言うとおり(前篇)
日本と呼ばれるこの国に、獣の体の一部を持つ子供が生まれるようになって既に久しい。 昔々に大きな戦争と災害があって、その時の文明が滅んでしまってから生まれるようになった、と一部の記録にはあるが定かでは無い。 彼らは獣神(けものがみ、もしくはけものかみ)と呼ばれ、最初の頃は神様として崇められることが多かったようだ。 動物のような嗅覚や聴覚は人間のそれよりずっと優れていたし、速く駆ける者、夜目が利く者、高く飛べる者、様々な力を持つ者がいた。 けれど、そのうち<ただの人>は彼らを怖れるようになった。 自分たちより秀でている。自分たちより優れている。ということは、いつかそんな彼らに自分たちが虐げられ、蹂躙され、駆逐される日が来るかもしれない。 そう思うようになった。 ならどうすれば良いか――。人々は考えた。その結果、神として扱っていた彼らを、異端として迫害するようになった。“獣神”では無く、先祖が何らかの残虐な方法で動物を殺し喰ったがために、血が呪われてしまった“獣噛”――などというもっともらしいこじつけまで用意して。 だから今、この国で獣噛は最も地位の低い、人であって人では無い生き物だ。奴隷として生きるか、世間からは低俗と見なされ疎まれ蔑まれるような職業について細々と生きるか、ほぼどちらかの道しか無い。稀に特殊な技能や才能を産まれた時から持っていて、またはあとから身につけて、普通の人間と同等の地位を得る者もいるが、そんなのは本当にほんの一握りだけだ。
黄瀬は物心ついた頃から身よりの無い奴隷として鎖に繋がれ、様々なところを転々としてきた。 もちろんまだ年齢が低い分は考慮されていただろうが、幸い容姿に大変恵まれていたのもあり、仕事といえば名家の子供の遊び相手だとか、裕福ながらも孤独な老人の孫代わりだとか、見目麗しい者を侍らせておきたい女性のお付きだとかそんなものが多く、他の奴隷のように労働力としてこき使われたりすることはあまり無かった。
しかしどんな類の奴隷であったとしても、一定の年齢になると教育係が付き、必要なスキルを躾けられるきまりがある。 その中でも最も重要で最も過酷なのが、それを学んでこそ一人前の奴隷として認められる、主の夜の供を立派に務め上げる為の技術――要するに性交渉の、性的な奉仕の仕方であった。 黄瀬についたのは黒子という物静かで穏やかな青年だった。 乱暴な教育係も多い中で彼に当たったのはある意味幸運だったのかもしれないが、理知的で淡々としているせいでかえって黄瀬は苦労した。 どんなにもうこれ以上は無理だと泣いても時間をかけて優しくゆっくり体を拓かれ、もっとと誘えばはしたないと甘く詰られ焦らされて、恥ずかしい嫌だ見ないでと言えば本当に後ろを向いてならばしばらくこのままでいましょうなどと言う。 更にはどれほど実際に挿入して欲しいと懇願しても、黒子自身が黄瀬を抱くことは終ぞ無かった。変わった男だ。 ちなみに黒子に閨ごとを教わって以降、既に幾人かの主に仕えた黄瀬だが、皮肉にもそちらの方面の才能はあるようだった。もともと高くついていた彼の値は、一般階級の人間では手を出せないほどの高値になり、あっという間に買い手もついた。
にも関わらず黄瀬は今またこうして売りに出されている。 それどころか彼は成人奴隷としての扱いを受けるようになってからというものの、今に至るまで買われては売り払われを繰り返している(そのせいで一時期より値は落ちた)。未成年は特に環境や扱いに留意するよう取決めがあるため、既定の年数以上に同じところで囲うことは禁止されているが、成人は普通に五年十年とひとところで飼われることも多い。そう考えると異常なことだった。 黄瀬は決まって奉公先でトラブルを起こし、結果的に手放された。 黒子をはじめとする教育係や黄瀬を知る施設の人間達は、それはそれは不思議がった。若干気が短く、獣噛にしては矜持が高すぎるきらいがあるものの、基本は素直で明るく人懐こい性分の黄瀬がどうして、と。 けれどもたとえ相手が黒子だろうと、黄瀬がその理由やいきさつについて自ら詳しく話すことは無かった。 前回も主人を引っ掻いた為にしこたま殴られ尻尾の毛をむしり取られて突っ返されたのだが、黒子は「またですか」と頭を押さえつつも、黄瀬がなんとか軽傷を負った程度で帰還できたことに安堵した様子だった。それから「短気を起こしてご主人様に歯向かってはいけません。自分から手を出すなど論外です。それではどんな理由があったとしても、君が悪いことになってしまう。下手をしたら君の身が危ういんですよ」ときつく言い含めた。最後に傷だらけの黄瀬が謝ると、すこし泣きそうな顔をした。 もしかしたらこれが一番効いたかもしれない。黒子を悲しませることは、黄瀬にとってもすごく悲しいことだったから。
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「今度はどんなご主人様なんスか?」
朝餉をとったあと出発前に身なりを整える為、黄瀬は黒子に連れられて専用の浴場に来ている。 一部むしられた自慢の尻尾の毛がまだ完全に生えそろっていないのがとても残念だが、仕方あるまい。念入りに洗って日に晒して、ブラシをかけてふかふかにしてもらおう。髪と耳も綺麗にしなくちゃ――と黄瀬は湯船につかって洗い場の椅子に腰かけている黒子の方を向いた。
「実は、僕の友人なんです」 「ゆう、じん?」 「はい。昔からの付き合いなのですが……その、少し難しい人でして」 「えっ」
難しい? じゃあまたオレ余計なこと言ったら殴られるのかしらん。 黄瀬は主人に手を上げられた時の痛みを思い出して眉を顰めた。耳も勝手に寝てしまう。
「悪い人ではないんです。むしろ根はとても優しくて、決して暴力をふるうような人では……でもこの間誰かにヒザ入れてましたね……色々壊してたし……火神君も以前一度……いやでも大丈夫です」 「えええ今なんかゼンゼンだいじょぶじゃなくなかった!? だいぶヤバくなかった!?」 「黄瀬君。言葉づかい」 「あっ! す、スマセンっス。ごめんなさい」 「肩までちゃんと浸かってあと百数えて下さいね」 「ふええ。オレ、のぼせちゃうっスよおぉ……」
なんとか五十までにまけてもらい全身くまなくぴかぴかに磨き上げてもらった黄瀬は、途中興奮して黒子の前で一人性器を扱く羽目になった。 堪え性がない子にはお仕置きです、と言われ一切手助けしてもらえなかったが、餞別なのだろうか、最後に優しく頭と耳を撫でられてたまらず声を上げ達した。 黄瀬は黒子のことを恋人のように思っているわけでも、日ごろから性的な目で見ているわけでも無い。 ただ寂しい、触れてほしい、優しくされたいと思うと、スイッチが入ってしまう。 本当は違うんですよ、と黒子は黄瀬に教えてくれた。
――こういうことは好きな人と、あなたが愛したい、愛されたいと思う人とだけ、するんです。 でもごめんなさい。僕は君にそういう風にコレを教えてあげることはできない。愛を与えてあげることもできない。 僕は君に何もできない。黄瀬君、ごめんなさい。
哀しげに謝罪を繰り返す黒子を、黄瀬は謝らないでほしいと抱き締めた。
――そんなこと言わないで欲しいっス。大丈夫。大丈夫っスよ。 ありがとね黒子っち。 オレにはこれしかないから。オレが生きていくにはこれしかないから。これでいいんス。 オレ、黒子っちが教育係でほんとうに良かったなあ。
形はどうであれ、黒子は自分のことを大事にしてくれる。ひとりの人として扱ってくれる。黄瀬にしてみればそれで充分だった。 黒子テツヤという人間は黄瀬にとって、知らなかったことをたくさん教えてくれる先生であり、初めての友だ。少なくとも黄瀬はそう思っている。 だから新しい飼い主が今回黒子の友達だと聞いて、ひどく安心した。信頼する黒子の友達ならばきっと必ず良い人に違いない。そう思った。
何もかもを洗い流してまっさらになった体に素っ気ない綿麻の上下を纏い、黒子の前で姿勢を正す。 出立の前の儀式は、これでもう何度目だろうか。 そっと目を伏せながら黄瀬は願った。
(今度こそ、オレの本当のご主人様に会えますように――)
深い光沢を湛えた太い蝋引き革のベルトが頸に巻きつく感触に、わかってはいても鳥肌が立つ。
「……行きましょうか。黄瀬君」 「はいっス。黒子っち」
まだ見ぬ主の所有の証に縛られて、黄瀬はほんの微かな希望を胸に黒子を追った。
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