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黄瀬が黒子に連れられてやって来たのは、街外れの坂の上にある大きな屋敷だった。 高い塀に囲まれた中には桜や楠の大木が何本も立っていて、森のようにさえ見える。 周囲から隔絶されたその空間は時の流れが止まっているのかと思うほど静かに深く、どことなく来訪者を拒絶するような雰囲気だ。 門を入って長い階段を上った先には左手に平屋の日本建築、正面に白い壁の洋館がそびえており、その裏手へ回ると硝子扉に囲われたサンルームに加えて、木香茨の蔓を絡ませたパーゴラを配した広いオープンテラスになっていた。 黒子は玄関の呼び鈴も鳴らさずに迷うことなくそこへと向かい、開け放したサンルームのラタン製カウチソファで眠っていた人物を無遠慮に叩き起こした。 「青峰君お久しぶりです。キミの友達を連れてきました」と。
「頼んでねえ」
男はぶっきらぼうに言った。即答だった。
「頼まれてませんけど」 「俺がいつ友達欲しいなんつったんだよ。大体それ、奴隷だろ。そんな趣味悪ぃモンは買ってねえぞ」
「それ」だの「趣味が悪い」だのと指をさされ、黒子の斜め後ろにじっとかしこまって膝をついていた黄瀬は、尻尾を膨らませてその人物を見上げる。 見上げて、驚いた。 素晴らしく均整のとれた偉丈夫だ。 雲突くばかりの長身に浅黒い肌、短く刈り込んだ紺青の髪、瑠璃色の小さな瞳は夜空を映した井戸のように煌々と輝き、鍛え上げられたしなやかな筋肉はまるで鎧じみて、彼の姿をより様になるものへと仕立てている。 美しい獣のようなひとだ――黄瀬は思った。 口は悪いけれど、それよりも何と言ったらいいのか、目を奪われるものがある。
「いえ。代金は支払ってあります。なので彼は青峰君のものです」 「はあ!? ちょっと待てどういうことだ!? テツお前、人のカネ勝手に使ったわけじゃねーだろうな!?」 「違いますよ僕のお金ですよ。あ、大丈夫です立て替え分の手数料や返済利子とかは取りませんので」 「おい冗談じゃねーぞお前いつからそんな悪徳業者になったんだよ。大体、教育係は自分が担当してる奴隷のうち、一人しか買えないんじゃねーのか。お前ンところにゃもう先に一人いただろ。したら入札権自体が消滅してるはずだろうが」 「よく御存じで。ですから桃井さんに相談したところ、とても良いアイデアだと喜んで協力してくれましたよ」
黒子の言葉に、青峰は頭を抱えて低くうめいた。「最悪だ」
「まあ最初からあんなものはザル法ですから、名義の書き換えや担当変更で誤魔化せるんですがそれも面倒で……ああ、桃井さんを怒らないであげて下さいね。彼女は僕のお願いを聞いてくれただけで「わーってるよそんなこたあ! この場合どこからどう見ても百パーお前が悪いだろうがふざけんな!」青峰君うるさいです」
怒鳴る男。いつも通りの黒子。黄瀬はすっかり呆気にとられて二人の顔を交互に見やるしかない。
「さ。黄瀬君。青峰君にご挨拶を」 「あっ! はっ、はいっす!」
マイペースな黒子の声に促され、黄瀬はすぐさま立ち上がり、教えられた通りの優雅なお辞儀をして「黄瀬と申しまス。本日よりこの身のすべて、ご主人様に捧げます。何なりとご命令を」という定型の挨拶を述べた。 男はちらりと黄瀬を一瞥しただけで、何も言わない。 ただ心なしか、眉間の皺が深くなった気がした。
「彼は青峰君。青峰大輝君です。陸軍第一師団桐皇隊のエースですよ」
そう紹介した黒子の表情が、一瞬だけ翳る。黄瀬は違和感を覚えたものの、この場で尋ねるわけにもいかず「そうなんスか。すごいっスね」と頷いた。 いくら黒子と旧知の仲とはいえ、こんな相手とやっていけるのか正直不安だ。 しかもこの屋敷、大きいのにまったく人の気配がしなかった。通常これくらいの規模の屋敷で、しかも軍人ならば、お手伝いや奴隷が複数いるのが常である。
「青峰君、黄瀬君と仲良くしてあげて下さい。黄瀬君はとてもいい子ですから、慣れれば二人での生活もきっと楽しいと思いますよ」 「黒子っち……!」 「黄瀬君。青峰君のこと、お願いしますね」
優しい黒子の言葉に思わず尻尾の付け根のあたりがきゅんとなるのを必死に我慢して、黄瀬はこくこくと何度も首を縦に振る。
「まかせて下さいっス! オレ、ご主人様にリッパに尽くしてみせるっス!」 「その意気です。また様子を見に来ますから」 「あーもー来んな! テツてめェは二度と来んな!」 「ほんとっスか黒子っち! オレ、待ってるっス!」 「そしてこいつを連れてさっさと帰れ!」 「じゃあ黄瀬君。頑張って下さい」 「はいっスううううう!」 「おいちょっと! 連れて帰れっつってんだろ!!!」
がしゃん。 男が黄瀬の襟首を掴んで黒子の方を振り返った時には、既にそこに黒子の姿は無く、門が閉まる音だけが空しく響き渡ったのだった。
残されたのは、二人だけ。 黄瀬は今一度、目の前の新しい主人を見上げた。
(あおみね。あおみねだいき。オレの――新しいご主人様)
「お前。キセっつったか」
青峰がようやく口を開く。先ほど黒子と言い合っていた時よりかは、だいぶ落ち着いた声音になっていた。
「はいっスご主人様! きいろの黄に、さんずいの瀬で黄瀬っス!」 「キセ……あー、黄瀬。明日ンなったらテツのところに戻れ」 「え!? そ、それは困るっス!」 「なんで」 「だって、オレもう商品としてご主人様に預けられたっス。返すにしてもまた売るにしても色々と手続きが必要だし、ご主人様の家から勝手に帰ったりしたらオレ捕まってお仕置きされちゃうっスよ」
一度売買契約が成立した奴隷は、特別な理由が無い限り(残念なことに以前黄瀬が主に手を出した件はこの特別な理由のうちの一つであった)返品は許可されず、すぐさま売り払ったりすることも認められていない。 ただの玩具とは違うのだから、購入したからには責任を持って一定の期間その身を預かり生活を保障してやる。それが主の責任だ。 たとえ奴隷や獣噛でも、最低限の生きる者としての権利くらいは認められている。奴隷はきちんと政府が認可したバイヤーを通してしか売り買いしてはいけないし、いくら奴隷だからと言って、主がその生殺与奪の権利を持っているわけでは無い。一応ではあるものの、そういったルールは制定されている。 それがきちんと履行されているかどうかはまた別の話だが。
「ああーっクソめんどくせえ……」
そう言い放った青峰は、ソファへと再び横になってしまった。
「ご主人様、オレなにかすることないスか?」 「ねーよ。つーか出てけ」 「それはムリな相談っス……」 「とにかく明日ンなったらあーその……返すなり売るなりすっから、今日は勝手にしろ」 「はあ……」
途方に暮れた黄瀬はすごすごと青峰から距離を取って床に座り、別れ際の黒子の言葉を反芻することにした。 暇だったり悲しいことや辛いことがあると、いつもそうする。 黒子がかけてくれた言葉や過去あった数少ない楽しい思い出を、何度も何度も再生して、自分を励ます。
『黄瀬君はとてもいい子ですから』
黒子が自分をいい子だと言ってくれた。褒めてくれた。嬉しい。
『慣れれば二人での生活もきっと楽しいと思いますよ』
(――ん?)
そういえばどさくさだったので流していたが、二人での生活とは一体どういうことだろう。
(いち、)
青峰が一人。
(にい、)
自分が一人。合わせて――
(え? ふたり?)
だんだんと夕刻になろうかという頃なのに、やはりこの家はとても静かだ。 さっきも疑問に思った。なぜこんなに静かなのだろうか、と。 黄瀬はそろりと足音を立てずに青峰のいる部屋から家の中へと忍び込み、屋敷の探検を始めた。
「……マジスか」
結論から言うと、屋敷内をひとめぐりしたところ誰にも会うことは無かった。 それどころか、おそらくここが青峰の部屋であろうという洋間には衣類や本が散乱していて、まったく手入れがされていない様子だった。食材も見当たらないので夕食の準備もしようが無い。とりあえずたまっていた洗濯物だけは洗って干した。 青峰はまだ眠ったままだ。 どうするべきかと黄瀬が再度地べたに腰を下ろそうとした時、不意にりんごーん、という重厚なベルの音が屋敷に鳴り響いた。
「大ちゃーん! 大ちゃんいるんでしょー!?」 「あ、お客様スか? はーい!」 「あらっ? あらあらあら〜!」
玄関に出てみると、そこには淡い桃色の髪をなびかせた女性が両手いっぱいの荷物を抱えて立っている。 黄瀬の顔を見た途端に目を輝かせて、「もしかして、テツくんが連れてきてくれた大ちゃ……青峰君のお友達?」と尋ねて来たので、黒子や青峰の知り合いのようだ。
「オレ、今日から青峰のご主人様に仕えることになった黄瀬って言うっス! よろしくっス!」 「私はさつき、桃井さつきって言うの。よろしくね」 「あ、じゃあもしかして黒子っちが言ってた、オレの落札に協力してくれた桃井サンって……!」 「そ。わ・た・し。テツくんとは同じ士官学校を出たの。青峰君も一緒だったんだけど……まあこっちは腐れ縁てトコね。えっと、黄瀬君だから……きーちゃん、て呼んでもい〜い?」 「えっ! も、もちろんいいっスけど。オレ、見ての通りアレっスよ……?」
獣噛で、奴隷っスよ、とはなんとなく彼女の前では言えず、黄瀬は曖昧な言葉でもって自分を指し示した。 桃井は「関係ないよ」と穏やかに笑い、「テツくんだっていつもそう言ってるでしょ」と続けた。
「それより……耳と尻尾、ちょっとだけ触っても……いいかな? さっきから気になって気になって……! きーちゃんのはキツネさん?」 「そっスよキツネっす! どうぞゾンブンにナデナデして下さいっス!」 「きゃあああ〜! ありがとう〜! ああん本当にふかふか〜っ!」
なるほど。素敵な女性だ。黄瀬はすぐさま彼女に好感を持った。やっぱり黒子の友達に悪い人はいない。 あっという間に黄瀬の尻尾の虜になった桃井によると、黒子から今日の予定を事前に聞いており、青峰のことなので家に何も置いていないだろうとわざわざ食材を届けに来てくれたとのことだった。
「助かるっス! ありがとう、桃井サン!」 「どういたしまして。うん。良かった。どんな子かと思ってたけど、きーちゃんなら青峰君もきっと大丈夫だね」 「そ……スか? 黒子っちもそう言ってくれてたんスけど……ご主人様、オレのこといらないって」 「――きーちゃん、……」
桃井は僅かに表情を曇らせてなにごとかを言おうと唇を開いたが、すぐにまた元の優しげな笑みを湛えて首を振った。
「ね、お願いきーちゃん。青峰君の傍にいてあげて。あいつ、思ってもいないことばかり言うけど、ああ見えてホントはそんなに悪いヤツじゃないの」 「わ、かりました。あの、ご主人様、呼んでくるスか?」 「いいっていいって。どうせうるさがられるだけだし。今日のところはこれで失礼するね。頑張ってきーちゃん!」 「はい! ありがとうございましたっス!」
またね、と手を振り合って別れ、黄瀬は鼻歌混じりに食材を冷蔵庫へしまってから青峰の様子を見にサンルームの方へと赴いた。 ソファは空だ。テラスや裏庭に彼の姿は無い。 耳をそばだてると、随分遠くから奇妙な音が聞こえてきた。屋敷の中ではなく、外でも無い。
(あの平屋の建物――)
物置かと思ったそこは入ってみると外観の古めかしさとは裏腹に、立つ人の姿が映り込むほど磨きこまれた床板で覆われていた。
(天井高いな……中も広い。……道場?)
青峰はその中央に佇んで木刀を握っていた。何の構えもとっていない。 ただ、宙を睨んだままだらりと腕を下げて立っているだけだ。 なのに、黄瀬の尾の毛はざわざわ激しく波立った。 うなじがちりついて、足元から頭へと震えが走る。 嵐が来る前の森に一人で入ったみたいな感覚。 耳が痛くなるほどの静寂。
青峰の身体が不意にふらりと揺れて、それから――
「――ふっ!」
だん、だ、だん! 続けざまに凄まじい踏み込みの音が空を震わせる。 三連の突き――だった。おそらくは。 黄瀬の目は非常に良い。普通のヒトより遥かに観察眼や動体視力が優れており、大体の人の仕草や動作は一度見れば真似できるほどである。 なのに、今の青峰の動きはその目を以ってしても正確に捉えられなかった。 しかもなんだろうあの型は。護身や警護用に習ったどの剣術とも違う。はっきり言ってめちゃくちゃだ。
――でも、つよい。間違いなくこの人は、つよい。
「すっげェ……!」 「?」 「なに今の……! やっべあんなん見たことねー! ――って、はうッ!? す、スマッセンご主人様!」 「別に。勝手にしろっつったし。……誰か来てたな」 「はいっ! さっき、桃井サンが食べる物持って来てくれたっス!」 「あー……、そ」
聞いているのだかいないのだか、緩い返事に黄瀬は困惑して尻尾を何度か打ち振る。
「あの……」 「ンだよ」 「ご主人様、キレーでした」 「……あン?」
青峰が片眉を跳ね上げて黄瀬を見る。 はじめて、はじめてちゃんと目が合った気がして、全身がかっと熱くなった。知らず耳や尾が立ち上がり、声が上ずる。
「っあ、あんなキレーな突き、オレはじめて見たっス。ご主人様スゴイっすね! きっとつよいんでしょ!? ソンケーしちゃうっス!」 「――ハ。誰かを殺すための強さでも、お前はそう言えるのか?」
口元は薄く笑っているのに、凍るような低く感情のこもらない声音。
「――え?」
黄瀬は、青峰の発した言葉の意味がわからずに、忙しなく瞬きを繰り返した。
「閉めるぞ。出ろ」
立ち尽くす黄瀬の横を青峰が通り過ぎる。風が起こった、と黄瀬は思った。 青峰が通ったあとに、彼を追うように、風が。 緑と日なたと埃のにおいだ。優しい、胸のつまるような懐かしいにおい。
「なんで……?」
気付けばそう口にしていた。 何故そう言ったのかもわからない。ただ、青峰に尋ねたいことがあった。
☆
「ご主人様〜? ご飯できたんで……良かったら、食べてくださいっス」
おそるおそる青峰の部屋の前でそう呼びかけた黄瀬は、踵を返す前に中から足音が聞こえてきたことに大層驚いた。てっきり無視されるものだと思っていた。 ドアが勢いよく開き、中から部屋着に着替えた青峰が出てくる。先ほどまで纏っていた和服に似た――おそらく軍の通常勤務用の制服であろうものとは打って変わって、真っ白な上衣に黒いパンツのシンプルな格好だが、これはこれで決まっている。黄瀬は思わず見惚れてしまいそうになり、それを振り払うかのように両耳をぱたぱたと動かした。
「さつきのヤツ、まさか料理を持ってきたんじゃねーだろーな」 「持って来てくれたのは材料っスけど……桃井サン、料理上手じゃないんスか?」 「あいつの作る料理は軽くテロだ」
きっぱりと言い放つ青峰の目はまったく笑っていない。本気の目だ。一体どれほど凄まじい料理を作るのか、できることならば一生知らずに済むよう願おう。 黄瀬も最初のうちはどちらかというと料理は下手だった。 というよりも、食べることに執着をしない性質だったので、作ることにも興味を持ったことが無かったのだ。 けれど、必要なことだからと教えてもらううちに楽しくなった。特に、黒子と出逢ってから。 教育係が教えるのは夜伽の方法だけでは無い。 もちろんそれが第一なのだが、それまで奴隷が学んできたことのうちから、これにはこういう才能がある、これにはこういう仕事が向いている、と幾つか選び出して、更にそれを伸ばすのも教育係の仕事だった。 そして黄瀬は黒子に、君は頑張れば料理がうまくなると思います、と言われた。 黒子が自分の作ったものを食べて、初めて「おいしいです」と言ってくれた時の、天にも昇るような気持ちは絶対に忘れない。 だから黄瀬は、誰かのために料理を作ることが好きだった。 テーブルの上には色鮮やかなサラダとオニオンスープ、ふかしたじゃが芋にエビとアボカドとエリンギを炒めてマヨネーズであえたもの、それからパンにご飯と様々な食べ物が並んでいる。 最後に熱々のビーフシチューを皿によそい青峰の前に置いて、黄瀬はぴょこりと頭を下げた。
「どうぞっス」 「は?」 「え?」 「お前の分は?」 「オレ?」 「食わねーの?」
黄瀬は目を丸くした。 奴隷は主人と一緒に食事はとらない。誰かと、主と、家族のようにテーブルを囲んで、会話をして――そんなことは普通、ありえない。許されないことだ。
「や、オレ、ご主人様と一緒にゴハンは……したことないんス、けど」 「そんでそうやってずっと立ってるワケ? そっちの方が食べ辛ェし、大体この量どう見ても一人分じゃねーだろ」 「え、え、でも、」
そうは言われても、どうしたらいいのかわからない。黄瀬は体を硬直させたまま動けないでいる。 そんな黄瀬の様子に、青峰は深くため息を吐いた。
「……んじゃあこれは命令だ。お前もそこに座って一緒にメシを食え」 「はっ、はいっス!」
主と向かい合って食事。 黒子が見たら卒倒しないだろうか。オレは今もしかしてとんでもない罪を犯しているんじゃないだろうか。そんな気さえして、なのにとても嬉しくて、黄瀬は自分の作った料理の味がよくわからなかった。尻尾はもう根元からぴんと立ちっぱなしで、まるで言うことを聞かない。 ふと視線を上げると、あっという間に皿を空にした青峰がじっとこちらを見ている。
「あのっ! おかわりいるっスかっ!」 「いる」
すぐさま皿が差し出され、黄瀬は喜びのあまりぷるぷると身を震わせた。
「お前、料理うめーのな」 「へぇっ!? あっ、ありがとうございます良かったっス!」
礼を言う声が盛大に裏返る。 最終的に、青峰はビーフシチューを軽く三杯平らげた。
「風呂もトイレも、部屋も服も布団も、勝手に使え。明日、朝イチでテツんトコ行って契約を破棄させる」
食事は共にしても黄瀬を飼う気が無いことに変わりは無いらしく、青峰は自室へ戻る前にそう宣言した。
「……あっ、けどご主人様。明日は土曜日っス。明日、明後日は組合やお役所はおやすみっスよ」
おずおずと挙手して黄瀬は進言する。
「…………」 「……あの、ご主人様?」 「ハメられた……」 「え?」 「テツのヤツ、これも織り込み済みで今日来やがったのか……! ああクソッほんっとアイツとは仕事以外じゃソリ合わねェ!」
金曜日の昼下がりに引き合わせれば、あとはどんなに返品や契約の破棄を希望しようと、役所や奴隷管理組合が開かない限りはその申請ができない。 当然、奴隷を道っ端へ放り出すことは許されない。 つまり少なくとも自分は、月曜日の朝までここに青峰のものとして居ることができるわけだ。 怒声をあげて頭を掻きむしる青峰とは対照的に、黄瀬は思わず小さくガッツポーズを決めた。 なんとかこの二日間で青峰に気に入ってもらおう。 せっかく黒子が自分を信頼して任せてくれたのだから、死んでもガッカリさせるようなことがあってはならない。 それに――
(知りたい。このひとのコト)
黄瀬がこんな風に他人に興味を持つことは珍しいことだった。なぜだかはわからない。ただ、知りたい。近づきたい。そう思った。
「あの、お風呂は……」 「あ? だから勝手に使えっつったろ」 「や、そうじゃなく。ご主人様のお風呂、オレお供するっス」 「……はァア?」
青峰が頓狂な声をあげる。先ほどからの反応を見ていると本当に一度も奴隷を飼ったことが無い人間なのだな、と感心せずにはいられない。 この世界でそれなりの地位がありこれだけの暮らしをしていて、それなのに一人で生きてきたなんて。
(不思議だ)
「風呂なんて一人で入るに決まってんだろ!?」 「でもでも、お風呂の時ご主人様の体洗うってのもオレの仕事なんス! 黒子っちにだってそう教わったし……」 「んだそりゃ……。いらねーよそんなん。むしろ俺が入ってる時、勝手に入ってくんなよ!? いいな!?」
黄瀬の鼻先に指を突き付けてそう宣言すると、青峰はどすどすと乱暴な足音を立てて行ってしまった。 黄瀬が当たり前のようにしてきたことが、青峰にはまるでそうではないらしい。 逆に青峰にとっての当たり前は、黄瀬にとって未知のことばかりだ。
(やっぱり、不思議だ)
結局、それ以降は青峰と顔を合わせることなく一日を終えた。 青峰が浴室から出たであろう音を聞きつけて黄瀬がそこに行ってみると、一人で入るにはいささか大きすぎる立派な浴槽にはまだなみなみと温かな湯が張ってあって、それだけで嬉しくなった。食事の時だってそうだ。いずれ追い出すつもりではいるのだとしても、仕方なくにしても、青峰は今この家に自分がいることを認めてくれている。そう感じた。 黄瀬は入浴の後きちんと水滴を残さぬように壁も床も拭き、脱衣籠に放り込んであった青峰の服を洗って干した。 部屋は好きに使えと言われたが、これがだいぶ困った。なにしろ奴隷や召使い用の部屋が用意されていないものだから、ベッドがあるのは客間しかない。いくらなんでもそれはと思い黄瀬が選んだのは、青峰が最初に寝ていたサンルームのカウチソファだった。タイルとガラスに囲まれたそこは夜になるとだいぶ冷えていたので、一番使い込んである毛布とタオルケットを階段下の納戸から拝借してそれに身を包み、更に尻尾を体に巻きつけて横になった。
(いいにおい……)
窓の外には星が見える。 透き通った美しい夜空だった。
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