恋する生きもの:1



ふかふかのベッドの上で目が覚める。
朝の澄んだ光がカーテンの隙間からきらきらと射し込んで、板床とそこに敷かれたカーペットに美しい線を描いていた。
そのまっすぐ透った光をしばし見つめていた黄瀬は、やがて体を起こし、大きく息を吸って吐く。
それから四つん這いになり両腕をうんと伸ばし、上体を反らせて脚を突っ張らせて、ひとつあくびをしてから耳と尾をぷるる、と波打たせた。

黄瀬が青峰の屋敷に来てから、一ヶ月が経っていた。
主従の契約を結んでまず青峰が黄瀬に与えてくれたのは、二階の廊下の突き当たり、南向きの大きな部屋だ。
最初黄瀬は驚いて、とんでもないと首を横に振った。それこそ寝床はソファで充分だったし、自分の持ち物なんてほとんど無い。この家に居させてもらえるだけで充分なのに――ひどく恐縮する黄瀬に青峰は、「今から増える」、そう言った。

――『お前の持ち物は今から増える。だからお前の場所がいるだろ』

青峰はさっさと職人を呼んで内装を整え、カーテンやライトやベッドなどのインテリアを半ば強引に黄瀬に選ばせた。早く決めないとこの部屋が完成するまで俺は床で寝てやっからな、などというメチャクチャなことを言われてしまえば、黄瀬に拒否権など無かった。

そして数日ほど経った夜、夕食を終え洗いものを済ませた黄瀬は、青峰に連れられて二階へと上がった。

『できたぞ。お前の部屋』

白いペンキで塗られたドアのノブに手をかけた時の感覚を、黄瀬はまだ鮮明に覚えている。
胸のドキドキがひどすぎて指先が震えた。冷たいノブがすぐにてのひらに馴染んで、まるで誰かと握手しているみたいだった。

『――ぅ、わ、』

キャンドルのようなやわらかいシーリングライトの灯りに照らされた室内は、数日前とはまったく異なった様相になっていた。
深い栗色の床板に、すっきりとしているけれど温かみのあるアイボリーの壁紙、大きなベッドと二つの窓がまず目を惹く。
正面の窓は全面硝子張りの大きなもので、外には広々としたバルコニーがついている。
左手には出窓。ちょうど覗き込むと木香茨の絡むあのパーゴラが見えた。
その出窓の手前には小さな書斎机が置かれ、横には図鑑や絵本や小説、更に料理の本などがぎっしり詰まった本棚がある。図鑑は青峰から、小説は黒子から、料理本は火神から、絵本は火神の意見を聞きながら青峰と黒子が各々選んでくれたと言う。
上にいくつものふっくり膨らんだ枕と、海の青や菜の花の色のクッションが並べられているベッドはセミダブルで、これも白く塗られた木製。ベッドサイドのテーブルやチェストも揃いの、素朴で清潔感のあるデザインになっている。黄瀬がリクエストした数少ないもののうちの一つだ。
決して華美では無い。でも、そこは確かに光り輝く黄瀬だけの城だった。ひゃあひゃあ言いながらあちこちを見て回る黄瀬の姿を見て、青峰は至極満足そうな笑みを浮かべていた。
黄瀬はもう部屋のドアを開けた時点で、とっくに昂奮も驚きも最高潮に達していたのだけれど、最後にクローゼットに収められていた幾らかの服や靴(不思議とどれも黄瀬にぴったりの)、新品のボール、あと何故だかこのタイミングで「これ風呂入る時に使え」と差し出された金魚のじょうろやアヒルのおもちゃの入ったバケツを見て、ついには泣き出してしまった。
青峰はといえばそんな黄瀬を前におおいに慌てたらしく、しばらく硬直したあと、また神の庭でそうしてくれたように、黄瀬が泣き止むまでゆっくりゆっくり頭を撫でてくれた。
部屋をもらったことも、物をもらったことも、もちろん嬉しい。
けれどなによりも一番嬉しかったのは、青峰がそうやって自分が傍にいることを許して――それどころか共に暮らせるように手や心を尽くしてくれているということだった。

「おはよっス、ハトさん」

カーテンを開けると最近常連客になったキジバトがバルコニーの手すりを行ったり来たりしている。声を出して黄瀬が挨拶すると、一旦鳴くのを止めて首を伸ばし、ぱちぱちと瞬く。逃げる気配は無い。

「餌はいつものところに置くっスからね」

朝食後、噴水の横にある餌台の上にパンくずを撒くのももう日課になっていた。
日によって色々な鳥が訪れて餌をつついては、お礼に自慢の歌を聞かせてくれる。青峰によると、黄瀬が来てから随分と青峰家の庭はにぎやかになったらしい。獣噛は動物寄せができるのかと尋ねられたが、そんなことは無いと思う。

着替えを済ませて階段を軽やかに駆け下り、顔を洗い髪を梳き、耳や尻尾の毛が乱れていないかもちゃんとチェックして、黄瀬は主の寝室へと向かった。
コンコンコン、ノックはテンポよく三回。

「ご主人様、おはようございまス! 朝っスよ〜」
「……――あいてる」

中からその声が聞こえてくるのを待って、ドアをそっと開けて隙間から顔を覗かせる。「ごしゅじんさまあ」。呼べば奥のベッドの中から浅黒い腕が伸びてぷらぷらと揺れた。「……おはよ」。低く掠れているけれど、はっきりとした声。

「はい! おはようございまっス!」

これで大丈夫だ。笑みと共に扉を閉め、すぐに朝食の仕度に取りかかる。
いつもの朝だった。こんな素晴らしい朝が、「いつものこと」になっている。
ボウルに割り入れた卵をかき混ぜながら、黄瀬はその、自分にとってはまだ真新しい日常を噛み締めて、またちいさく笑うのだった。



「そういえばお前、アレ考えておいたか」

 今朝は昨晩の青峰のリクエスト通り和食にした。茄子と茗荷と豆腐の味噌汁に、しらすの入っただし巻き玉子、手羽先と大根の煮物、青菜としめじとベーコンの炒め物、あとは納豆と、きゅうりの浅漬け、もちろんご飯は大盛りだ。
それを美味しそうにもりもりと咀嚼しながら青峰は黄瀬に尋ねた。急なことに黄瀬は箸を止め、右耳を傾ける。

「アレ?」
「アレだよアレ。誕生日の。――ッふは、耳が九時の角度だ」
「だ、だいじょぶっスまだ時刻は六時半っス! じゃなくて、えっ! アレ本気だったんスか!? ご主人様」
「たりめーだろ何言ってんだ」

黄瀬が正式に青峰の奴隷になった際、青峰にはいわゆる履歴書というか、黄瀬の奴隷証明書が渡されたわけなのだが、そこに書いてあった出生月日が六月十八日だったのである。

『おまっ、オレん家に来た日のちょっと前が誕生日だったんじゃねーかよ!』
『あ、そうだったんスか?』

へええ、と感心する黄瀬に、青峰は「知らなかったのか?」と眉をひそめたが、別にそういうわけでは無い。一応は知っている。紙の上の情報としては、知っている。
幼い頃からロクに祝われたことも無ければ歳をきちんと数えているわけでも無いので、単純に興味が無いのだ。
そういえば黒子にも「お誕生日おめでとうございます」と言われた気がする。
正直、「オタンジョービ」に縁が無さ過ぎて、他人事のように「ありがとうございまス?」と返してしまった。

『あの、まあ、本当かどうかもわかんないんで……』
『……つったってお前……あー……んで、下の名前はリョータって言うのか』
『みたいっスね』

それもやはり誰か知らない人のことのようだった。
自分がいつどういう場所で産まれて、親がどういう獣噛で、いつからどうして奴隷になったのか、黄瀬は知らない。自分のことなのに知らない。
知ったところで今の自分が変わるわけでも無いし、覚えていないことを知ったって「そうなのかー」としか言いようが無い――と思っている。
そういう意味で、黄瀬は自分に対してとことん無頓着だった。

『なんかちっちゃい頃からしてるこのピアスの裏に「Ryota」て掘ってあったから、そう登録してあるって昔聞いたっス』
『漢字は?』
『カンジ?』
『ここにはカタカナで「リョータ」ってある。漢字は無いのか』
『無いっス』

そもそも、奴隷には名前などあって無いようなもので、飼われた先で名前や番号をつけられることも多い。
黄瀬もとりあえず自己紹介の際には「黄瀬」と名乗っているが、かつての主たちにその名で呼ばれたことなどほとんど無かった。
ただ今は――特段愛着の無かった名前にも、意味があるのだと思える。思えるようになった。
青峰が「黄瀬」と呼んでくれるのが嬉しい。
彼の呼ぶ「黄瀬」の「せ」のところがすこし上がって鼻にかかったような響きになるのが、耳にとても心地好くて好きだ。

『ふうん……』

青峰は黄瀬の返事を聞くと、しばらく考え込み、ペンとメモ用紙を取って来て何やら書き出しはじめた。

『どれがいい』
『えっ』
『この中でどの字が好きだ』

突き出された紙片には、特徴的な字で、涼・良・亮・了・遼・龍(と書いたつもりだったのだろうけれど、なんだかぐちゃぐちゃっとしていて怪しい形になっていた)の文字が並んでいる。
だが、明らかに「涼」の字が大きい。最初勢いよく書き出したものの、あとでスペースが足りなくなってきゅうきゅうになってしまったのだろう。

『あっあの、じゃあコレ』

イチオシにしか見えないサイズだし、一番最初に書いてあるし、さんずいに馴染みがあったのもあるし、なんとなくすっきりして見栄えが良かったのですぐにそれを指差すと、青峰も「ふむ」と頷いた。

『いいんじゃねーか。すずしい、の「涼」。なんかお前の見た目にあってる。涼……「タ」はアレだな。オレの……大きいの「大」の字に点つけたヤツでいいな』
『点……?』

それを聞いた黄瀬は、新しい紙に「涼犬」とでかでかと書いた。

『ソレだと「りょうけん」か「りょういぬ」だ』

頭を抱えられてしまった。
しかもこの間違い、今気付いたけれど以前火神もやっていた気がする。黒子が同じように頭を抱えて、自分は「火神っちバッカでー!」なんて笑っていたのに。なんということだろうか。これは火神には絶対内緒にしておくべきだ。黄瀬は一人そのメモを千切って握り潰そうとした。
が、すかさず青峰に取り上げられてしまう。

『「涼太」だよ。「黄瀬涼太」――これでいいだろ』

自分が書いたヘタクソな上に誤った「涼犬(りょうたのつもり)」の下に、青峰の「涼太」が並ぶ。

『ふおお……! ご主人様スゴイ! これカッコイイ! カッコイイっス! ありがとうございます! ……あれっ? ご主人様の名前……ご主人様は、青峰……だいきってどう書くんスか? えっと、大きいの次は?』

青峰は更に「涼太」の横へ、「大輝」と書いてくれた。

『青峰大輝、な』
『はわあああご主人様っぽくてめちゃくちゃカッケーっス! 大に点――涼太の太は、大輝の大に点! えへへ、なんだかしっぽみたいっス』

そう言ってぷいんと尾を振ると、青峰も「そう言われてみりゃそうだな」と笑う。

――だいぶ話が逸れているが、そんなこんなで黄瀬は青峰から下の名前の漢字をもらい、「誕生日もここにある日付できちんとしよう」ということになった。
歳を数えるのにも、誕生日を祝うのにも、必要だと。
黄瀬は何を言っているのだろう、と思った。
歳……は必要かもしれないけど、お祝いなんていらないのに。

『いやいるだろ。うーん……しかし、このタイミングかよ……。黄瀬、何か欲しいモンはねーのかマジで』
『そんな……欲しいものなんて無いっス。オレ、今、ご主人様と一緒にいられるだけで、一生分の欲しいものもらっちゃったような気分だし……とてもじゃないけど、そんな……』

本当に困り果ててしまってそう答えると、青峰はなんだかひどくむず痒そうな顔で唸り、「じゃあ一ヶ月くらいやっから考えておけ」と引き下がった。その場は。
そのまま忘れてくれるだろうとその時は思ったのに――
結局、今またこうして訊かれてしまい、黄瀬は驚きと困惑におろおろしている。

「だっ……だってあれからお部屋も本もお洋服もボールももらって……」
「ありゃ別だ。必要なモンだからプレゼントじゃねーよ」
「そうは言っても、オレにとっては……」
「首輪、はまだ新品だし……やっぱ身に着けるものがいいのか? アクセサリーとか。あー……わっかんねーなァ……」

アクセサリー、という単語に、黄瀬は思わずちらりと青峰の胸元のペンダントを見た。
その瞳と同じ青い宝石。それがとても綺麗で好きなので、実は最近、こっそり自分の普段着の胸元のボタンを、似た色の硝子ボタンに付け替えたのだけれど。

「ん? これか? ……そうだな――これにするか」

黄瀬のほんの一瞬の視線の動きを目ざとく捉えた青峰は、ペンダントを摘まみ上げて顔の前に差し出した。

「ちっ! ちちちちちがうっスそそそそういうじゃなくて! そういうんじゃなくて! その石、ご主人様の目とおんなじ色してるから、すごくキレイだなって、ご主人様によく似合ってるなって、ただそれだけで、決してそういうアレじゃ……ひー! ごっ……ごめんなさい!」

物欲しげな顔をしていたのだろうかと羞恥に耳(人の方の)が熱くなる。
どうしよう、すこし泣いてしまいそうだ。主の持ち物をうらやましそうに眺めていたということよりも、青峰にそう見られてしまったことが恥ずかしくて哀しい。

「そうじゃねェよ……。……お前、最近服のボタン変えただろ? だからこういうのが好きなのかと……」
「えっ!?」

驚きに尻尾が跳ね上がって、後頭部をかすめたのがわかった。
気付かれていた。青峰が――気付いていた。そんなところ、服の、ボタンひとつに。

「はぅ……う……スマセ……」
「なんで謝んだ。まあいい……別にお前を困らせたいワケじゃねーし、今はここまでにしておく。欲しいものが見つかったらすぐに言え」

黄瀬がこれ以上は勘弁して欲しいとばかりに涙目で身をかたくしているのを見て、いい加減青峰も諦めたのだろう。残りのご飯をいきおいよく口に掻きこんで席を立ち、「時間だ行ってくる。お前はまだゆっくり食っとけよ」と黄瀬の頭をわしゃわしゃ撫でて、一旦自室へと向かおうとする。
黄瀬はそれを追った。ご飯はちゃんと残さず食べる。でもそれは青峰を見送った後だ。

「いいっつってんのに……」
「ダメっス! これもオレのお仕事っスから! あとこれ……いつものっス」

よく食べる青峰は人一倍朝食を摂ってもどうにも昼食まで保たないらしく、間食として黄瀬がおにぎりを持たせている。
軍がどんなところだか知らないが、そんなものを勤務中に食べている暇があるのかどうか。普通は無い気がする。けれど青峰はいつもそれを残さず食べて帰る。

「……そういや今吉サンに、こないだ嫁が来たのかって言われたわ……」
「はい?」
「なんでもね。じゃな」
「あっはい! いってらっしゃいっスご主人様っ!」

長い階段を下ってゆく青峰の背を、黄瀬はいつも通り最後まで手を振りながら見送った。