青峰の仕事が休みと決まっている日曜日は、決まってふたり連れだって神の庭に行く。
道中はそれなりに大変だけれど、着いてしまうと風が涼しく存外過ごしやすいし、何よりも黄瀬はこの場所が大のお気に入りだった。
到着するとまずご神木のもとへ駆け寄って挨拶をし、お弁当を広げる。そのあとは青峰が大抵昼寝をするので、黄瀬はひとり遊びまわったり青峰の寝顔を眺めたりして楽しんでいる。
今日は持ってきたボールをつき追いかけていたのだが、不意にどこからともなくパラパラという羽ばたきにも似た軽やかな機械音が近づいてきたのに気付き、耳をそば立ててあたりを見回した。

「おーい!」
「!?」

続いて聞こえてきた人の声に、一体どこから? と庭園の端の石柵まで行ったところで――

「ここかーっ! やあーっと見つけた!」

突如左から大きく旋回して姿を現した巨大な影に、黄瀬は目を瞠った。
それは鳥――ではなく、飛行機だった。
と言ってもハンググライダーのようなものに簡単なプロペラを付け、小型エンジンを乗せた、一人もしくはせいぜい二人用の飛行機で、よく“カモメ”と呼ばれている。
いわゆる通称だ(正式な名前は別にあるのだろうけれど、黄瀬はそれをよく知らない)。白い翼ですいーっと空を舞う姿は、実際カモメのように見えた。

「どいてどいてー! そこ、下りるからー!」
「あ、は、はいっ!」

ちょうど水辺にしつらえてある石造りのデッキに着地するつもりらしい。カモメは上空で円を描きつつ、黄瀬がそこから十分に距離を取るのを待ってから、滑るように下降して来た。
空気が一瞬渦を巻き、小川の水が細かな飛沫を上げて、幾らかの花弁が宙へ舞い散ったが、それ以上は草花がなぎ倒されることも無く思いの外静かなものだ。

「いよォーっし成功! ご協力どーも!」

片手で拝むようなジェスチャーをしながら降りてきたのは、ゴーグルを頭の上に乗せた黒髪の青年である。

「あー良かったー。最初お屋敷の方いったらもぬけの空っぽで、もしかしたらこっちかなーって思ってとりあえずぐるっと飛んでみてたんだけど、いッやーココにいてくれて助かったわー。森の中入っちゃってたら流石のオレでもわかんないからさ。もう真ちゃんがどうしても今日中に、ってうるさくって! オレお休みなのにマジひっどくない!?」
「はあ……」

よくしゃべる男だ(しかも後半何を言っているのかさっぱりわからない)、と思いながら、しかし黄瀬の視線はその肩の向こうへと一心に注がれている。
彼の背には焦茶色と墨色の艶やかで立派な羽が、綺麗に折りたたまれていた。

「ああ、コレ? オレ、鷹の獣噛なんだよねー。高尾ってんだ。高尾、和成。アンタは?」
「黄瀬、っス」

青峰に漢字を当てはめてもらった「涼太」はなんだか勿体なくて、名乗ることができなかった。

「そっかー。よろしくな、黄瀬」
「ん、っス。よろしくっス」

どことなく軽薄そうな雰囲気にわずかばかり警戒の姿勢を取っていた黄瀬だったが、悪い人ではないのだろう、と肩の力を抜く。

「あ。そんで肝心の用事。コレ、届けに来たんだよ」

斜め掛けにしている大きな布バッグから何やら小包を取り出した高尾は、木陰の方を見て「でも旦那爆睡中だね」と笑った。

「郵便屋さん?」

黄瀬は改めてまじまじと高尾を見た。
こうした人目につく一般職に就いているということは、少なくとも奴隷階級では無いということであって――でもならばなぜする必要も無い首輪を? にわかに彼への興味が膨れ上がる。

「そ。兼業だけど。おはようからおやすみまで、あなたの街を見守る、空飛ぶ郵便屋さんだぜい!」

ブイサインを繰り出しつつ高尾が両翼を広げてみせると、二人の周りにぶわりと風が起こる。持ち主の身長を軽く超えるほどの丈の羽根は、間近で見ると圧巻だった。

「うわあ……カッケェっス!」
「うっそ真面目に褒められちまった……。なんていいヤツなんだお前……! 郵便と言ってもこの通り、宅配便が多いんだけどね」
「? でも羽根あるんならカモメいらなくないスか?」
「あっソレ突っ込んじゃう? 実はさ、この羽根、長距離飛ぶのには向いてないんだよなー。なにせ胴体はこの通り人間だから、重くて重くて。すぐ疲れちゃうし次の日筋肉痛になるし。だから遠方への配達の時はカモメ使用なの。タカがカモメに乗ってくるとはこれイカに!? って感じだろ?」

げらげら笑う高尾につられて黄瀬も笑う。
同じ獣噛とこんなに言葉を交わすのは、なかなか無いことだ。黄瀬自身がまともに付き合いのある獣噛なんてせいぜい火神くらいで、飼われていた頃は立場上あまり自由に会話ができないことが多かったし、檻――“ケージ”と呼ばれる奴隷の教育管理施設では、剣術や基礎教養のような共通科目でも無い限り、他の獣噛と顔を合わせることはあまり無かった。

「ご主人様が目覚ますまで、ちょっとおはなししないスか?」
「もっちろん! しようしよう!」

このまま立ち話も何だから、と黄瀬は水筒と残っていた菓子を手に、高尾をデッキ近くのベンチに招く。
木々や石柱の影がかかるところとは言え、陽射しはなおもきつく照りつけている。すると彼は片翼だけをパラソルのようにさし傾け、日陰を作ってくれた。

「わ〜。ありがとっス! スゲーっスね。羽根、便利っスねえ!」
「黄瀬……いやきーちゃんと呼ばせてもらおう! お前ってばいいヤツだなあ。まったく、あの青峰の旦那ンとこに初めて奴隷が来たって聞いて一体どんなのが!? と思ってたけど、カワイイし素直だしモッフモフだし言うコト無しじゃん!」
「えっいや……。うん? オレのコト……どうして知ってるんスか?」
「そらもーオレ情報通だし! ま、なんつったってお宅のご主人とウチのご主人は、かつてのお仲間だから」
「マジすか!?」
「おー。大マジだよ」

聞けば高尾の主は大変に変わった人物らしく、青峰や黒子と同じ士官学校を出、街で小さな診療所を開いて、一日の大半を難しい医学の研究実験と謎のまじないだか占いだかに費やしているとのことだった。

「オレの首輪、気になる? こういう仕事してる獣噛が珍しい?」
「う、ハイっス。スマッセン」
「あっは。気にしなくていーって。オレはな、ご主人と契約したのさ」
「ケイ……ヤク……? ご主人様と奴隷の?」
「書類上はそうなんだけど、ホントは違う。オレらのは――ま、言ってみればパートナーかな」
「パートナー?」
「そ。『オレがアンタを助ける相棒になる。だから、アンタはオレに、それができる居場所をくれ』って、ね」
「……――え、」

それは、あまりにも傲慢だ。獣噛が人間に吐くような言葉ではない。
獣噛と人間は対等ではありえない。「普通」なら。今の世界の「普通」なら。

「ウチのご主人はガチで変だ。変だけど、筋は通ってる。自分の中で、揺らぎようの無いルールみたいなものがあるんだな。真ちゃん……ウチのご主人ね。緑間真太郎って言うの。――真ちゃんの中じゃ、獣噛だろうと人間だろうと関係無い。ただ、まっすぐ自分の基準に照らし合わせて、“アリ”か、“ナシ”か。相手が自分にとって、信頼や尊敬に値するヤツか、そうじゃないか。それしか無い。だからオレは認めさせてやろうと思った。『獣噛』としてじゃなく、『奴隷』としてじゃなく、ただ一人の『オレ』として、『オレ』じゃなくちゃダメだって、言わせてやろうって。コイツなら、きっとそれができるって思ったんだ。
 真ちゃんなら、オレをオレとして見てくれる、認めてくれるって」

高尾の黒曜石のような双眸がぎらぎらと力を持って輝いている。彼が言っていることは、黄瀬が青峰に抱いている印象や想いと、とても似通っていた。
人様や世間の価値基準など気にも留めない。ただ自分の中で絶対の、強い意志、剛い心がある。
多くの人が『獣噛』『奴隷』としてひとくくりにするような存在である自分のことを、自分として見てくれている。「黄瀬」と呼んでくれる。
そういう彼だからこそ、ついて行きたいと思っている。

「それでっ……それで、どうしたんスか?」
「最初は『何を言ってるのだよ』って一蹴されちった。あ、真ちゃんて喋り方ヘンなのよ〜。語尾にチョイチョイ『なのだよ』ってつくんだけどなんなんだろね!? きーちゃんも今度聞きに来たらいいって!
 んでえっとなんだっけ? あー! そうそう! 真ちゃんにね、相手にされなかったんだけど最初は。まー色々やったなー。はじめのうちは何とかコイツに自分を認めさせようってそればっかだったけど、なんつーか、真ちゃんの仕事に嫌がられても必死について回って、見て、覚えて。メシ作って、食べて、喋って、ベンキョーして。そんなことしてるうちに、『今アレが欲しいんだろなー』とか『今こんなこと考えてるな』とか、『そんなこと言って実は嬉しいんでしょ』とか、だんだんわかるようになってさ。で、なんかいつの間にか一緒にいるのが自然になって、そしたらある日突然、真ちゃんが紙切れ持って来て、『お前は今日から正式にウチの一員なのだよ』っつったワケ」

――おそらく、彼の主人であるその人は、高尾を己の家の戸籍に入れたのだろう。自らの地位を落とさず獣噛を養子にするにはもともとそれなりの家柄でなければならないし、その上でかなりの額の保証金が必要だったはずだから、すごいことだ。

「嬉しかった。オレ、やっと真ちゃんの相棒になれたんだーって。けどさ、やっぱ男としてはきちっとケジメつけたいワケよ。借りたモンは返さねーとさ」
「もしかして……働いて、その時のお金をご主人に返してるんスか?」
「おう。真ちゃんはいいっつったんだけどな。オレの気が済まねっての。ちゃんと全部耳そろえて返すまで、オレはこの首輪を取らない。オレが、自分でそう決めたんだ。まあ単なるワガママなんだけど、隣に並ぶにはそんくらいしねーとさ。せっかくなら、真ちゃんにふさわしい自分でいたいし……向こうにもそう思ってもらえたらいいなって、ハハ、つい欲張っちゃうんだよなあ」
「隣に並ぶ……」

それにふさわしい自分。
――青峰の隣にいるのにふさわしい自分。

(……どんな自分だろう。オレは……どういう風になりたいんだろう。オレのするべきこと、できること……)

考えてもすぐに答えは出ない。
青峰は主で、自分は奴隷。奴隷の自分は主の身の回りの世話をして、セックスをするのがこれまでの仕事だった。
だけど今は違う。
黄瀬は自分の足枷のはまっていない足へと視線を落とした。

思い出す。
青峰から教えられた、共に暮らすにあたっての、注意事項。

『俺は主人だ奴隷だっていうような関係は苦手だしメンドクセーから、あんまかしこまるな。まぁ……家の中では家族だと思って普通に接してろ』

黄瀬には家族がいた経験が無い。
かつて幼い頃、「家族ごっこ」じみたことはしたことがある。あれは大きなお屋敷に住む独り身の老人だった。
黄瀬は“孫のようなもの”としてその家に迎えられた。
老人は無口で、仕事といえば時折新聞や本を読み聞かせたり、ゲームの相手をしたり、彼の気が向いた時に撫でられたりブラッシングされたり、という程度だったため、黄瀬にしてみればこれまで経験して来た中でも随分と楽で居心地の良い家だったと思う。正直さして記憶にも残っていないのだけれど。
だが、それでも老人は人間で、黄瀬は獣噛だった。
つまるところ、黄瀬が獣噛以上の、人の子のように見られることは決して無かったということだ。
老人が悪いわけでは無い。必要以上に鞭でぶったり罵声を浴びせるわけでもなく、ごく自然に――そう、彼はごく普通に、黄瀬を気の向くままに可愛がり、餌をやり、運良くだか運悪くだか黄瀬に看取られて亡くなった。
黄瀬はきっとペット――つまり人の形をした愛玩動物だった。
黄瀬自身、それに何の不満も感じなかった。
繰り返すが、むしろ楽だとさえ思っていた(体を求められることも無かったし)。
そうされることが自分の仕事だと思っていたのだから、当然だ。
天涯孤独の身の上であるとか、獣噛であるということや、奴隷として扱われること、主に抱かれること――それらは「普通」のこととして黄瀬の中に刷りこまれている。

――けれど、青峰にとってはそうじゃない。

青峰はあの晩のセックスに関して、はっきりとは言及しなかった。
「もうああいうことは無理にしなくていい」。その一言だけだった。
それが主に対する性的な奉仕をしなくていい、という意味であることくらいは黄瀬にもすぐ理解できた。
当然だと思う。
青峰の傍にいたいと思うあまり、欲を押し付け誘うようなことを言ってこの体を抱かせて――
悪いのは自分なのに、謝罪までさせてしまった。
あれはいけないことだった。しては駄目なことだった。
それはわかる。でもそのことしかわからない。

『オレには……その「家族」も「普通」も……よくわからない、ス……』

狭い世界に繋がれて生きて来た自分はこんなにも無知で愚かでちっぽけなのだと、半ば愕然とした。
青峰に怒られるかと――落胆されるかと思った。
けれど彼は「それも今からだ」と、黄瀬の背を励ますように叩いた。

『言ったろ。「お前の持ち物はこれから増える」って。他の誰かンとこみたいな家族じゃなくて、誰かに教えられた「普通」じゃなくて、お前が作るんだよ。
 お前が俺と暮らすうちに出来上がったものが、お前にとっての「普通」になるんだよ。黄瀬」

後日、その話を黒子にしたところ、彼は「ああ、青峰君らしいですね」と微笑んで、

――『……つまり青峰君は、いわゆる既成の――単に教えられたからそうしているような主従関係が厭なんでしょう。
   ちゃんと黄瀬君の意思で、自由に考えて感じて、その上で自分との関係を築いて欲しいんです。
   まあ、こういう言い方も回りくどいですか。わかりやすく言うと、とにかく必要以上に気を遣わず、自然体でいろってことです。黄瀬君のやりたいようにやればいいんです。青峰君もその方が喜びます』

そんな風にアドバイスをくれた。

(うう……とは言われても、ここ一ヶ月、ホントにオレなんもしてなくて……。こんなんでいーんスかね。ご主人様に恩返しはしたいし、でもオレあげられるものなんも持ってないし……)

「どした?」
「へっ!? あ、スマセン。ボケッとして。……あのね、オレ、こんなに良いご主人様に出逢えたのはじめてなんス。だから何か恩返しがしたくて……。でもその、オレ、今までその……とりえ、っていうか、そういうの、見た目とか……夜のご奉仕、くらいしか褒められたこと無かったんス。だけど、ご主人様はそういうのしないでいいって言ってて……えっと、……そうするとオレ、できることホントに無くって……」
「んー。少なくとも、青峰の旦那は見返りとか求めてないと思うんだよなあ。……てかさ、旦那ってホント頑ななくらい奴隷飼わない人だったらしいね」
「そう、みたいっス……。オレもそこらへんはよく知らないんスけど……」
「うん。それで、やっときーちゃんが選ばれたんだから、自信持っていいと思うよ」
「え?」
「ハハッ、なんかスッゲエ不安そうなカオしてるからさ。……自分の気持ちにも、そのうち気が付くと思うけど。時間をかけてゆっくりと、だぜ!」
「? う、うん、わかったっス」

間違いなくあまりよくわかっていない状態で、けれどもそのアドバイスはきちんと受け取ろうと必死な黄瀬に、それでも高尾は「よっし」と頷いてくれる。

「そろそろ旦那もお目覚めかな」

その声に黄瀬が木陰の方へと目をやると、浅黒く長い腕が二本、うんと天へ向かって突き上げられているところだった。

「お邪魔しちゃ悪ィし、オレそろそろ行くわ。コレ、ここにサインお願いしていい? 『青峰』って。はいペン」
「オレがしていーんスか?」
「だってきーちゃんだって、青峰の旦那の相棒だろ?」
「……オレ、は、……そんなのには……全然……」
「だから、これからなりゃいーんだって! なっ?」

ぐっと親指を立てて言われ、黄瀬は勢いに負けてこくりと首を縦に振る。
そこへ青峰がやって来て、

「――黄瀬になんかヘンなコト吹き込んでねーだろな」

高尾に向かい、いきなりそう言った。

「ご、ご主人様! 高尾っちには色々教えてもらってたんスよ!」
「高尾っち?」
「プフー! 旦那ゴメンねー! オレもうきーちゃんと親密な仲になっちゃったもんでー!」

片翼を大きく広げ、黄瀬を抱え込むようにしながら高尾が言うと、青峰はいよいよ眉を跳ね上げてがりがりと後頭部を掻き、「用が済んだらさっさと帰れ」と追い払うような手つきをする。

「ご主人様……」

黄瀬が少し悲しそうに眉尻を下げると、今度は気まずそうに口を真一文字に結んで押し黙ってしまった。
高尾はといえば気分を害する風でもなく、それどころか面白いものを見たとでも言わんばかりににっかり笑って「毎度あり」と羽をたたみ、身を翻してカモメの方へと歩いて行った。
その前に「脈ありまくりじゃん」と呟いた声が黄瀬の耳には届いていたが、意味はよく理解できなかった。

「ありがとね高尾っち! 良かったらまたお話し聞かせて欲しーっス!」
「まっかせとけー! また来るから!」
「来なくていい。というかなんなんだ。どいつもこいつも人の家に不法侵入し放題過ぎるだろ」

最後まで不機嫌な青峰なのであった。



青峰の機嫌のせい――なわけではまさかあるまいが、帰り道、ふたりは運悪く夕立に見舞われてしまった。
鼻の良い黄瀬はいち早くそれを察知して青峰に先を急ぐよう言ったのだけれど、残念ながら間に合わず、そろってびしょ濡れだ。

「すごかったな」

まさにバケツを引っくり返したような雨である。
外はザーというよりはゴーという滝のような音がしていて、黄瀬の耳も心なしかしんなり垂れ気味になっていた。

「す、すぐにお風呂沸かすんで! ちょっと待ってて下さい、タオル取って来るっス」

黄瀬は服の裾を絞り尾をぶるぶる震わせ水滴を振り落とし、爪先立ちでととと、と廊下を走って脱衣所へと駆け込んで、ボイラーのスイッチを入れて浴槽の蛇口をひねり、バスタオルを掴んで戻って来る。
それを受け取った青峰は、

「はぷっ!? ごひゅじんひゃま!?」

黄瀬にかぶせてごしごしと拭き始めた。

「あばばばば、ちが、ご、ごしゅじんさまがふいて、先に、あー!」

問答無用でやわらかなタオルにもみくちゃにされ、黄瀬は大慌てでこもった叫びを上げた。
青峰がタオルの向こうで笑っているのがわかる。
夏とはいえ、濡れたままは良くない。せめてもの抵抗に手をうろうろさせていると、ひんやり冷えた服が指先に触れた。
このままでは大事な主に風邪をひかせてしまう。

「ううう……」

そのままきつく握ると、今度は熱いものが手を包む。

(え――)

「つめてェ……。早く風呂入らねーと」
「お湯、も、もう少ししたらとりあえず浸かれるくらいにはなるはずっスから」

ようやくタオルの中からスボッと頭を出すことに成功した黄瀬は、思いがけなく間近に迫っていた青峰の顔にぎょっとして目を丸くした。
頬をてのひらで包まれると、そこから痺れるようなぬくもりが伝わってくる。

(なん、だ? コレ――)

「よし。お前も一緒に入れ」
「えっ?」
「……お前が嫌なら俺はあとでもいい。とにかく早くしろ。風邪ひく」
「ま、まっ、え、ご主人様!?」

(一緒!? 一緒ってナニ!? あとってそんな……というか、「お前が嫌なら」? どうして? 嫌なのはご主人様じゃないんスか?)

混乱に固まってしまった黄瀬の手首を握ってバスルームへと足を踏み入れた青峰は、すぐに「外、出てっから」と踵を返そうとした。

「ダメ!」

とっさに青峰のシャツの裾を掴み、引き止める。

「ご主人様がいいんなら、メーワクじゃないなら、オレお供するっス!」

この言い方は違う気がする。

「じゃなくて、えっと――」

奴隷だから主に尽くしたいと言う気持ちもあるのだけれど、義務とかそういうものではなくて、単純に、ごく単純にしたいこと。

「一緒にお風呂、入りたいっス! そうだ、前にご主人様の髪洗わせて下さいって言ったの覚えてるっスか? アレ、アレやらせて欲しい!」

あまりにも勢いよく言ったものだから、青峰は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐさま安堵を滲ませたように微かに目を細め、「いいぜ」と言って背を向けて服を脱ぎ出した。
黄瀬もなんとなくそうしなければいけないものかと背を向け、忘れないようにとまず首輪を入浴用のものに替えたあとに、濡れた衣服を肌から引き剥がした。

ふたりで湯をかけ合って、まずはしばらく湯船につかる。
少し距離を取って、でも時々言葉を交わしながら温まる。
いつもより賑やかな浴室だ。
ひとり増えただけでこんなに音が増えるのだな、と黄瀬は感動さえ覚えていた。
水面を泳ぐアヒル先生が青峰の方へぷかぷかと寄って行くのを、青峰は指先でつついて黄瀬へと寄越して来る。
それをキャッチボールみたいに飽きることなく続け、顔を見合わせて笑う。

(たのしい)

最初は性行為の準備のための場所だった浴室が、自分一人がゆっくりと汚れを落としてくつろげる場所になって――更に青峰と一緒だと、こんなにも楽しくてぴかぴかした場所になる。
彼は魔法の鍵の束を持っていて、黄瀬さえ知らない黄瀬自身の中にある新しい世界への扉を次々と開けて行ってしまう。そんな気がする。

「気持ち悪いところは無いっスか〜?」
「うあー。気持ちいーわー」
「ほんとうに? えへへ〜、良かったっス!」

腰にタオルを巻いてバスチェアに座っている青峰の形の良い丸い頭に、ふんわりと泡を乗せ、丁寧にマッサージする。
以前――ちょうど半月くらい前だっただろうか、青峰がシャンプーハットをくれ、ついでに使い方を教えてやると髪を洗ってくれたのだが、その時に自分にもさせて欲しいとお願いをして、今日念願が叶ったわけだ。
あのまま立ち消えになるのかと思っていたので、すごく嬉しい。
さっきの言葉もそうだったけれど、青峰は普段はいっそ気さくに接して――頭だって撫でてくれるのに、時おり不意になにかを思い出したかのように触れる寸前でやめたりためらったりすることがあり、黄瀬はそれをずっと気にかけていた。
自分が愚かにも体の関係を求めるようなことを言って、したせいで、そこに亀裂があるような気がしてならなかった。

(嫌われてるんじゃ……ないのかな。オレの裸見ても……イヤじゃないのかな)

青峰は「オレのことキライじゃない?」と尋ねた時、「嫌いじゃない」と言ってくれた。ちゃんと目を見て言ってくれた。
だから自分そのものを嫌っているとまでは思わない。
そうではなくて、自分の一部分――はっきり言うならば夜の奉仕に関わること、それを連想させるものを、青峰は警戒して、嫌悪している――そう考えていたのだけれど。

(こうして、お風呂一緒入ってくれて、触らせてくれる。良かった)

目を閉じてじっと黄瀬に髪を洗われている青峰は、いつもより若干幼く見えるくらいに穏やかな表情だ。
その言葉通り「気持ち良い」と思ってくれていることは、触れたところからも伝わってくる。

(良かったあ……)

ひどくほっとして、温まった体の奥からじわりと何かがこみ上げそうになるのをなんとかやり過ごし、代わりに軽く口角を上げて笑みを作った黄瀬は、手桶に湯を汲んで青峰へ声をかけた。

「じゃあ、流しま〜す。耳押さえて下さいっス」
「おー」
「――はい! じゃあ次は背中行くっスよ!」
「……おう」

どさくさにまぎれて背中を流す権利をゲットすることにまで成功し、黄瀬は歓びのあまり尻尾をびたんびたん床に叩きつけてしまった。

広い背中に、スポンジをそっと置いて、やさしくこする。
褐色の肌は思ったよりもずっときめが細かく、質の良い革靴のようにぴんと張りつめてとても綺麗だ。
筋肉の流れに沿い、肩甲骨の窪みや背骨のおうとつをひとつひとつ丁寧に泡で包んで、汚れを流す。

(おっきい背中。……いっぱいしょってるひとの背中だ)

――本当は直接、触れてみたい。
てのひらを当ててみたい。
できることなら撫でてみたい。

あの日、したくてもできなかったから――

「――っ!?」
「黄瀬? どうかしたか?」
「あっいや、なんでもねっス。ご主人様、やっぱガタイいいなあって……う、うらやましっス」
「まーなー。でもお前も、もうちょっとは育つんじゃねーの?」
「そっ、そスかね!?」

(オレ、今なにを考えてたんだろう)

頭に絡む、蜘蛛が吐き出したような思考の糸を振り払おうと、黄瀬ははたきに似せて耳をぱたぱたと動かし、ひたすらに青峰の背中を磨くことに専念した。