翌朝、嵐が通り過ぎた空は美しく晴れ渡っていた。
青峰は先に目覚めてそっとベッドを抜け出した黄瀬に向かい、寝惚けた声で「また眠れねェことがあったらココ使え」とだけ言って、再び寝息を立て始めた。
黄瀬はすぐにはその意味を呑み込めず、仕切りカーテンのところで立ち竦んでいたのだけれど(そもそも青峰はまだ爆睡していると思っていた)、それが「ひとりで眠れない時はこの寝室――つまり青峰のベッドを使ってもいい」という意味らしいことにようやく行き当たると、混乱のあまり尻尾を振り回しながら部屋をあとにした。
不安と恐怖で神経が昂っていたにしろ、そのあと青峰が無事帰ってきたことに安堵しきって頭が弛緩していたにしろ、考えてみるととんでも無いことである。
奴隷の身でありながら、主人に添い寝をするどころかこれでは主人に添い寝してもらった恰好だ。
肉体の奉仕をすることも無く、ただひたすら、子供のように眠った。
布団も、枕も、部屋自体も、すべて青峰のにおいがしていた。
そして隣に、青峰がいた。

「――ッ、」

黄瀬は今更ながらに恥ずかしさと畏れ多さで悲鳴を上げたくなるのを口元を押さえてなんとか堪え、とにかくまず着替えて身づくろいをするべく自室に戻った。
いつものようにカーテンを開け、鳩に挨拶をし、寝間着を脱ぐ。普段着に袖を通し、顔を洗い、髪や耳や尾にブラシを通し、両手で頬をぺちぺち叩く。

(しっかり――しっかりしろ、オレ!)

青峰はと言えば、二度寝を決め込むかと思ったら黄瀬がキッチンに入ってからさして経たないうちに起きて来てダイニングテーブルのいつもの席に座り、少し寝ぐせのついたままの頭で朝食の仕度をする黄瀬の姿をぼんやり眺めている。

「ちゃんと眠れたか?」
「はっ、はいっス! あの、ご主人様、本当にありがとうございました!」

料理の手を止め駆け寄って深々とお辞儀をすると、青峰は「そーいうのはいいって」とあくびを放り、一言「良かった」と呟いた。



いつもより遅めの朝食を終えて食後のお茶を楽しみ、いつもより少な目におにぎりを作り、それを持った青峰(今日は無いと思ってた、と嬉しそうにしてくれた)をいつも通り見送った黄瀬は、溜まっていた洗濯物を洗いにかかる。
自分が使わせてもらったシーツや枕カバーはもちろんのこと、昨日濡れた青峰の衣類は干してはおいたがやはり雨や埃を吸ったものだから、今一度ちゃんとゆすいで綺麗にしたい。
シーツなどは洗濯機を使うとして、青峰のものは傷まないように手洗いと決めていた。
洗面台を使っても良かったが、天気が良いので庭の木陰にたらいを出す。実はこの庭の片隅には手押しポンプがあって、年中冷たい地下の水を汲み上げることができるのだ。
澄んだ流れにしばらく手や足をつけてそのひんやりとした心地を楽しんだあと、黄瀬は一心不乱に洗い物を始めた。
蝉の声が降り注ぎ、時折吹く風に庭木の葉が触れ合って軽やかな音を立てる。
暑くて額に汗が滲んでくるが、それを拭く手間さえ今は惜しかった。

かごの中のものはどんどんと減り、その代わり物干しロープにかけられたたくさんの服やタオルがはためいている。

「よし。あとはこれだけ、っと――」

最後に黄瀬が手に取ったのは、昨晩眠る際に青峰が着ていた寝間着だった。
とは言っても部屋着とあまり大差の無い、心持ち襟が大きくくれた黒い丸首の半袖シャツだ。
それを手に取り翳したところでちょうど風が強く吹き、黄瀬の顔面にばふりとそのシャツが張りついた。

「わ!」

びっくりして叫ぶ。次いで鼻から息を吸ったところで、黄瀬は下肢に痛みを覚えた。

「――ぇ、あ、な、なんで?」

股座がふくらみを帯びている。
ここに来た翌々日の晩、青峰に抱かれ、それ以来は夢精をした形跡が一度あったきりだ。
まだ十代の、それもこれまで毎日のように他人との性行為によって精液を吐き出すことがほとんどだった自分が、一ヶ月以上もこの状態なことが少々異常なのだから、仕方ないといえば仕方ない。
それにしたって何故このタイミングで、という話だった。

(ど、どうしようどうしよう、こんな――)

放っておけば収まるはずだ。静かに、何も考えずに、じっとしておけば。

(でも、ちゃんと洗濯、しなきゃ……ご主人様の、ッ、)

と、手にしていたシャツを掻き抱いたところで、また腰がびくりと跳ねる。
――においだ。
においが、する。
青峰の、嗅ぎ慣れた彼のにおいに加え、眠っている間にかいた汗のにおい。
それが黄瀬の体を甘く包む。

「ぁ、あ……」

頭や体の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜられたようだった。
思考や言葉が崩壊する。視界がちかちかと白く光るのは夏の陽射しのせいだけでは決してない。
とにかく外にいるのはダメだと思い、黄瀬は洗濯物を手にしたままよろめきつつもなんとか自分の部屋まで辿り着き、中へ這入って錠をかけた。
もう収まりがつかない。自分の体のことくらいわかる。ここまで来たら、吐き出させてやるしか無い。
ベッドの上に青峰のシャツを置き、自分は床に敷いてあるラグマットへ更にバスタオルをひいて腰を下ろす。
背をベッドの側面に預け、は、は、と荒い息を吐きながら、ズボンの尻尾穴のリボンをほどき、同じく紐をほどいた下着と一緒にずり下ろし、そろそろと脚を開く。
直視、できない。
自分の性器がどうなってしまっているのか、わかっているのに黄瀬は見ることができなかった。

「ん……!」

それでも手探りでゆるく勃ち上がった陰茎を握り、ゆっくり先端へと指を滑らせる。
動きはたどたどしい。
こんな風に自慰行為に及ぶことなんて、今まではほとんど無かった。
主の前で披露する一種のショーとしてか。黒子の教育が入らない日、あくまで体調を整えるためにこなす排泄行為としてか。そのどちらかしか、黄瀬は知らない。
黄瀬にとって自慰は、一度たりとて自分の快楽を追うための、または自分を慰めるための行為にはなり得なかった。

(えっと、えっと?)

人に見せる時にはどうやってたっけ。黒子にはなんと教わったっけ。
檻の中でひとりでやってた時にはどうやってたっけ。どうしたらいいんだっけ。
頭の方はそうやって鈍く軋みを上げているのに、手や体は心と直接結びついているとでも言わんばかりに勝手に動く。

「――くぅ、んっ、」

先走りを塗り広げた性器をくしゅくしゅと手で扱きつつ、黄瀬はベッドの上に置いた洗濯物へと鼻先を寄せた。
シャボンと花の香りに混ざって、やはりあのにおいがする。
日なた。生い茂るみずみずしい若草や緑の木々。たくさんの命を育む土。それから野山や街を駆け巡ったあとにも似て、胸の奥をやさしくぎゅっと掴まれるかのような、生きた人のにおい。

(ごしゅじんさまの……においだ……)

「あ、」

体の奥の奥から、あたたかく切ない衝動が込み上がってくる。

「ごしゅじん、さまあっ、――あ……あっあっ、んンっ、」

声を耐えようと目の前のシャツに齧り付いて、だけれども余計に青峰のにおいを近くに感じて、ああどうしようと思ったのだけれどどうしようもなくて、黄瀬はかぶりを振って涙をこぼした。
気持ちいい。
頭も心もどこかに舞い上がって行ってしまいそうで、ともすれば怖いくらいに気持ち良かった。
今まで自分がそうしていたよりも力づよく擦り上げて、透明な蜜を噴きこぼしているちいさな孔にぐりぐりと指先を押し当てる。
そうすると、あの骨ばった大きな手が脳裡に甦る。
剣胼胝のある、武骨な、浅黒い大人の男の手が。

「――ぐ……ぅーっ! ――!!!」

臀部にちからが籠もり、その狭間のちいさな孔がなにかを食い締めるかのように切なく蠢く。

「ア、あ、うぁっ、」

がくっと腰が跳ねて、腹筋が一旦強張ってから細かく波打った。
手の中に勢いよく放たれた白濁は、温めたゼラチンのようにどろどろと濃い。
黄瀬は肩で息をしながら信じられない思いで手指に絡んだそれを呆然と見つめた。
頭の中にばら色の靄でもかかっているかのような充足感と幸福感に満たされる一方で、尻尾の付け根や尻の孔はじくじくと疼いている。
額に浮いていた汗が玉を結び、つっとこめかみから顎へかけてすべり落ちた。その雫に撫でられる感触にさえ敏感になった体は軽く反応してしまう。
どうにか熱を散らしたくて目を閉じ深く息を吸って、吐いて――

「……ッは、……?」

突如意識が浮上する。ぼやけていた視界が鮮明になる。
今、今まさに自分が鼻先を突っ込み涎まみれにしているその服の香り。
今度はそれが黄瀬を現実に引き戻す。

「あっ、……え……、え、」

(オレ、なにやってんだ!? なっ、ななな、なんてことをっ……!)

おかしい。おかしすぎる。自分はどうにかなってしまった。正気の沙汰とは思えなかった。
真昼間から盛りついて、部屋で自慰に励むなんて。
……それも主の服に顔をうずめ噛みつきながら。

「――!!!」

それからの黄瀬の行動は早かった。まずは何度も何度も手を洗った。石鹸を散々に泡立てて、皮膚がすりむけるんじゃないかと言うほどに洗った。
次に清潔になった手で自分が汚してしまった青峰の服を洗った。これも何度も何度も、邪魔なにおいが無くなるまで、綺麗になるまで洗い続けた。
最後に様々な体液を吸ったバスタオルも。洗い終わった頃には黄瀬の両手は真っ赤になっていた。
そのあと電話の前に立ち、青峰が用意してくれた黄瀬用の連絡先一覧が記されたメモを見ながら、冷たく震える指でダイヤルを回す。
たった数度の呼び出し音さえもどかしく、黄瀬はその場でとんとんと幼く足踏みを繰り返した。

『――はいもしもし、黒子です』

幸いにも電話口に出たのはその家の主だった。

「〜っく、ろこっちぃいいいい! どうしよう! どうしようどうしようどうしようおれっ、黒子っち、黒子っち、黒子っち!」

どう言えば良いのかわからず、更には改めて先ほどの自らの行為を思い返して、黄瀬は八つ当たりじみた勢いで尻尾をばしばし尻に打ち付けその場にへたりこんだ。

『黄瀬君? どうしたんですか? 何かありましたか?』

さすがの黒子も、黄瀬のあまりの取り乱しぶりにいささか慌てた様子で尋ねてくる。

「黒子っち、オレっ、オレのからだっ、ヘンになっちゃったあぁ……!」
『は?』
「もっ、もしかして、これって“ハツジョーキ”なんスか!?」
『え、ぇえ……? ……――――』

形容しがたい黒子の小さな声のあとに、沈黙が流れた。
黄瀬は通話が切れたのかと思って、なぜだか手に持った受話器を振ってしまった。

『……黄瀬君』
「はいっス」
『それは、どうしてそう思ったんですか?』
「……え、と……ひ、昼間っからイキナリ……その――あの……。――ぉっ、おちんちん……勃っちゃって……。っでも! でもでも、洗濯物干してただけなんスよ? ホントっス! それがなんか……急にお腹がきゅうんてなって……。こ、こんなのはじめてで……。からだ、熱くて、ドキドキ、うずうず、くるしかったから、だから」
『――発情期では無いか、と」
「――っス……」

黄瀬は「発情期」が何かは詳しくは知らない。
ただ獣噛は稀に体が昼夜問わず昂奮状態に陥る時期があると、聞いたことがあったのだ。

『誰から聞いたんですか? それ』
「誰……っていうか、聞いたのは火神っちだけど……」
『はー……』

黒子がなにやらどす黒い溜息を吐いている。これはいけないと思って黄瀬は慌ててつけ加えた。

「やっ! いやっ! 檻にいる時もなんとなく噂では聞いたことあったっスよ! みんな……そーいう話スキだし……。オレはあんまりっスけど……」
『で、それがどういう意味かとかは?』
「イミ?」
『発情期のなんたるか、です。どうして発情期が来るかとか、発情期とは具体的に何なのか――どうなるのか、とか』
「あ、それは知らねっス。だって実際『なった』ってヤツはいなかったっスから」
『……そうですか。ならいいです。どちらにしろキツネの獣噛ならば基本的に冬が発情期ですよ。まあ君ちょっとキツネらしからぬところがあるので、当てはまるかどうかわかりませんけれど』
「そっ、そーなんだ……。ア、アハハ……。えー、と。そしたらやっぱアレっスね! オレ、こんなに長い間夜のおつとめしないの、おとなになってからはじめてなんで! きっと体がびっくりしちゃったんスねーっ!」
『…………』

とにかく発情期では無いらしい。少しホッとする。
黒子も教えてくれない、檻ではなんとなく都市伝説的な謎の現象として語られている“それ”を、黄瀬はどことなくおそろしいものとして認識しているのかもしれなかった(だって聞いているだけだと媚薬を盛られた時みたいだったのだ。そんなのがいきなり来て、しかも何日も続くなんて想像できない)。

(やっぱオレの体がやらしいことに慣れちゃってるせいなんだ……)

恥ずかしいことではあるが、それならこうして定期的に一人で処理をすればいいし、とにかく青峰の目にだけは触れぬよう気を付けておけば何も問題ないだろう。

『青峰君は……君を抱いていないんですね』

凪いだ声音でそう言われ、黄瀬は前髪の生え際にぶわりと汗が噴き出すのを感じた。

「っそ、そりゃ、そっスよ黒子っち! だってオレ、それでご主人様のこと怒らせちゃったんスから……!」
『怒る? 青峰君は怒ってなんか……「あっあっでもね! 夜のご奉仕が無いといっぱい眠れるし、体痛くならないし、ホント楽ちんで! お料理もお掃除もムチャクチャはかどるんスよ! あとあと、最近は剣も教えてもらってて――毎日こんなに楽しくていいのかなって思って。青峰のご主人様は、オレにとって最高のご主人様っス! だからオレご主人様に恩返ししたいし……。……まー、一番の売りの夜伽スキルが活かせないのはアレっスけど、この黄瀬涼太、そんだけのオトコじゃないってこと見せてやるっス!」
『黄瀬君、あのですね……――』
「ん? なんスか?」
『いえ……ううん……これは困りましたね』

電話口の向こう、少し遠くで黒子の唸り声がする。ぶつぶつと何か呟いているようだったが、さすがの黄瀬でも聞き取れなかった。
獣耳に受話器をあてれば良かったのか、と思い至った時には既に遅く、黒子は元通りの様子で「黄瀬君」と話を再開していた。

『とにかく、別におかしなことでは無いので安心してください。体の異常では――ありませんから』
「うん。ありがとっス黒子っち! 急にすんませんした」

ちん、と小さな音を立てて受話器をフックの上に置く。
黒子に相談したことで、身も心もいくらかすっきりとした。これでしばらくは問題なく生活できる。
黄瀬はうんと伸びをして尻尾を大きくひとつ振ると、またいつもの日常へと戻って行った。