駆ける二人にはおおよそ重力というものが干渉していないのでは無いか。
そんな風に思わせるほどの軽やかさ。

「ふっ!」

長い足指が鏡面じみた輝きを帯びる床板を確かに掴む。
腰を据えるわけでもなく、構えを取るでもなく、走ってきた勢いそのままに襲いかかる剣の切っ先。
たとえそれが木から削り出された殺傷能力の低いシロモノでも、直撃すれば大怪我はまぬがれない。
しかし黄金の獣は臆することなくそこへ飛び込む。凶悪な一閃が髪を掠め、その金糸を散らすのに目もくれず。
重心は低く、驚くほどしなやかに。

(獲った!)

人としては恵まれた長身長躯も、ひとたび場や相手を過てば致命的な不利を招く。彼の視界の広さや高さ、手足の長さでは、ここまで密着されればもう対応は不可能だ。
逆手に持った木剣を下段に払う。どんな大男だろうとそこを打たれれば動きが止まる脛をめがけて――

(ッ――ぇ――?)

手ごたえは、無い。
空振った力に引かれのめる体を支えようと、黄瀬はとっさに手を伸ばした。二本足で立つ生物として当然の反応。それが自身にトドメを刺す。

「しまっ――!」

一方、もとより四足の獣であるかのように体をひねりつつ黄瀬の後方へと跳躍した青峰は、着地するなり既に二撃目の構えを取っていた。

やられる。考えるより先に理解する。

(――――――、)

みっともなく地に這いつくばったまま、それでも黄瀬はもう一度剣を握り締め、巨大な黒い影へと向き直る。
袋小路に追い詰められた小動物の最後の抵抗にも似たみじめな姿。
だとしてもこのまま諦め負けるのは、あまりにも情けない――!

がぐんッ!

鈍い音が道場に散った。

「!」
「う゛――っ、ぐ、」
「黄瀬ッ……!」

降って来た木刀を腕で受け止め、青峰の咽喉元を狙った剣先は――到達まであと数センチほど、足りなかった。



「いっででで! ごしゅっ、ご主人様ももももうちょっとやさしくお願いしますっ……!」
「………………」

開け放したサンルームのカウチソファに座り、黄瀬は青峰の手当を受けている。
あの直後、木刀を放り出した青峰は鬼気迫る表情で黄瀬の手を取り、骨に異常がないかを丁寧に検め、とりあえず折れたりはしていないことがわかるとすぐさま庭の手押しポンプのところへと向かった。打ち身はまず冷やすこと。黄瀬がその迫力に気圧され言いつけ通りちょこんと座って患部を冷たい流水に晒している間、彼は手際よく氷嚢を作り上げ、尾を垂れた狐の青年をほとんど小脇に抱えるようにしてサンルームへと運び――今に至るというわけだ。

「ったく……無茶しやがる」

はあ、と深い深い溜め息を吐く主人に、申し訳ないという気持ちはある。
けれども珍しく黄瀬は謝らなかった。
『剣を手にしたのなら、それが本物の刃を備えた“真剣”であろうとなかろうと本気で――あくまで“真剣”に向き合え』――檻(ケージ)の中で黄瀬に剣術を教えてくれたヒトがそう言っていた。
青峰もきっと同じ考えを持っている。彼は武器を手に取り戦うことの重みを知っている。だから一対一で向かい合う時、絶対に手加減をしない。日ごろは黄瀬に手を上げることなど間違ってもしないけれど、稽古の場でだけは容赦なく遠慮なく剣を振るう。
……ただ、先ほどの最後の一撃はさすがにすんでのところで力を抜いたようだった。
おそらくあのまま木刀を振り下ろされていたら黄瀬の腕はいともたやすくへし折られていただろう。
黄瀬はそれを恐ろしいとは思わない。
そうなったとしても単純に自分が弱いだけ、弱い自分が悪いと思うだけ。

「お前のその姿勢と威勢は買う。剣の腕もだ。だがいい加減危なっかしすぎるぞ」
「そっスか?」
「……そういうところがまず危ねえ」
「???」

(そっか……そうだよな……。お稽古だし、それでご主人様に奴隷虐待の噂なんか立っちゃったら大変っス。この傷も目立たないようにしないと……)

「…………――――痛かったら言えよ」

青峰は黄瀬の腕から氷嚢をどけ、いくらか熱が引いたのを確認してから冷湿布を貼り、くるくると包帯を巻き始めた。
意外なことに上手い。それに、触れられているだけでなんだか痛みが和らぐ気がする。
凝視する黄瀬に気付いたのか、青峰はちらりと視線を上げてまた手元へと戻すと、

「必要に迫られていつの間にか上達しちまった」

小さく唸った。

「できたぞ。当分の間は安静にしとけ。買い物やらなんやらは俺がしてきてやる。稽古もしばらく休み。いいな」
「えっ!? そ、そんな、これくらい明日になったら「ダメだ」

さっきまでと打って変わって厳しい声音に、黄瀬の三角耳が後ろへ傾く。

「これは命令だ。剣術の稽古並びに力仕事禁止! 大体この頃お前は……――ん?」

どこからか聞こえるベルの音と、甘いシロップみたいなおっとりとした声。

「大ちゃ……青峰く〜ん! きーちゃ〜ん?」
「桃井サンっス! オレ、行って来るっスね!」
「あっコラ……!」

そそくさと玄関に向かおうとする黄瀬に対して青峰はまだなにごとか言いたげにしていたが、やがて「青峰く〜ん!」という再度の呼びかけに天を仰ぎ、後頭部をボリボリ掻きつつ腰を上げた。



「夏祭り?」
「そうだよ。昔よく一緒に行ってたじゃない。ね、ね。久しぶりに行こう?」

「青峰君たちのもちゃんと持ってきたんだよ」。長い髪を結い上げ愛らしい花柄の浴衣に身を包んだ彼女は、手にしていた大きな包みをリビングのテーブルに広げ、頬を紅潮させて青峰の顔を覗き込む。

「は? コレ、どうしたんだよ」
「おばあちゃんが縫ってくれたの! すごいでしょ〜。ほらほら着てみて!」

黄瀬はキッチンでお茶の用意をしつつ、二人の会話をつい盗み聞いてしまっていた。

(き、聞こえるんだからしょーがないっス……)

氷の入ったアイスティーのグラスを二つと熱い紅茶の入ったポットをトレイに載せ、なぜだか足音を忍ばせてリビングへ入った黄瀬を待っていたのは――

「目測だけどちゃんとサイズは伝えてあるし、色柄もいいのを選んだんだから!」
「バカ脱がせんな離せ! わーった! わーったから!」

青峰の上体にしがみついて服をめくっている桃井と、そんな桃井の肩をがっしと掴んでいる青峰(半裸)の姿だった。

「ぁ……ああああ、あの、おおお、オレ、オジャマ、でスィたかっ……!」
「噛んでんぞ黄瀬」
「かかか噛んでね゛ぇっス!」
「なんだそのなまり。つか見てねェで助けろ」
「うん! きーちゃんも青峰君の着替え、手伝って?」
「へ? へっ?」

かくして数分後には、濃紺の絣に身を包んだ青峰がいささか疲れた様相でそこに立っていた。
自分で持ってきた割に、そして先ほどの青峰とは対照的に、桃井はあまり手先が器用で無く、途中からはほとんど指示係に徹して実際に着付けたのは黄瀬という状態だった。が、その甲斐あってと言うべきか、夏らしい装いの主は実に良い男ぶりである。

「ご主人様……カッコイイっス〜……!」
「丈も大丈夫だね。思った通り! よく似合ってるよ、青峰君」
「はあ……」

軍服着てるのと大差ねェと思うが……などと言いつつ、青峰もまんざらでも無い様子だ。多分。

「留守はオレがしっかり預かるっス!」

黄瀬が自分の胸を叩きそう言うと、桃井はきょとんと目を見開いた。青峰だけがさしたる驚きも見せず、包みの中に残っていたもう一枚の布きれを引っ張り上げている。

「お前も行くんだよ」
「……はィ?」
「そうだよ? きーちゃんも一緒だよ?」
「!?」
「さつきはこういうトコぬかりねーよなぁ……。こいつアレだろ? 俺が昔着てたヤツだろ?」
「!?!?」
「あたり! 覚えてた? これならきーちゃんの背丈にちょうどいいかなって。おばさんに話したらすぐに出してくれたの」

とんでもない展開に置いて行かれそうだ。「イヤイヤ待って下さいっス二人とも!」――黄瀬はなんとかかんとか声を上げた。
「どうした」「なあに?」と突き刺さる視線が痛い。

「オレしっぽあるから人間の服は着られないっス!」

色々――色々と言いたいことはあったが、まず目下の問題はそれだった。



「……ごめんなさい。きーちゃん……」

しょんぼり肩を落とし謝罪する桃井に、一人洋装のままの黄瀬は何度も手や首や尻尾を振りたくって「とんでもねーっス!」と返し続けた。

「お気持ちだけで十分っスよ。へへ、あんな風に浴衣用意してもらったことなんて無かったんでホント嬉しかったっス!」
「き……きーちゃんんん……!」

涙目で自分の手を取り「今の恰好のきーちゃんもとってもとってもステキだよ!」と笑う桃井を見て、黄瀬は思う。
やはり彼女は優しくて魅力的な女性だ。

(……ご主人様と、お似合いだな)

――しかし先刻、尻尾穴が無いなら開ければいいだろうとハサミを持ってきた青峰を止めるのには苦労した。
桃井は桃井でやればできないことはないかも! と言い出して、今度は逆に青峰の方が「お前がやると浴衣バラバラ殺人事件になるからやめろ」なんて止めにかかる始末。
ただそんなやり取りも兄と妹であるかのような親しみに溢れていて、とても微笑ましかった。

落日後の群青が天を覆う頃、路面電車を使い神社通りに辿り着いた三人は、夜店と人でにぎわう道をすずろ歩いている。
道中桃井が綿菓子や林檎飴などの甘いものを所望するたび、「太るぞ」だの「またか」だの言いつつも青峰はそれを買ってやり(もちろん自分用のたこ焼きやスモークターキーなどをしっかり確保した上で、だ)、

「黄瀬、お前もホレ」
「わ……。これ、なんスか?」
「あんず飴。つっても中身すももだけどよ」
「あっ……ありがとうございまスっ!」

このように後ろを振り返っては、必ず何かしらを手渡してくれる。
黄瀬はそのつど複雑な気分で笑みをこぼした。

(……――)

青峰のあとをついて歩くのが好きだった。
彼の広い背中を眺めては追えることを、誇らしいとさえ思っていた。
たまに振り向いて声をかけてくれるのが嬉しくて、幸せで――とても、待ち遠しくて。
でも今は何か違う。
眼前に並ぶ麗しい男女。すれ違う誰もが浴衣姿の彼らに目を瞠り、あるいは頬を染め、感嘆の声を洩らす。そんな二人。
その後ろにしゃんしゃんと足枷を鳴らしながら付き従う一匹の獣噛。
それがどうにも場違いのように思えて仕方ない。

(……なんだろう。この感じ)

つややかに光る透明な水飴の中には真っ赤な果実が閉じ込められている。割り箸に刺されたそれを、黄瀬は宝石でも眺めるようにしてそろそろと灯かりに翳した。

(だけど、どんなかたちでも、恰好でもいいから、傍に……)

「――黄瀬? 黄瀬じゃねェか」
「ん……?」

おもむろに雑踏の中から聞き覚えのある響きを拾い、大きな三角の耳がぴくりと立つ。改めて探すまでもなく、その人物は見つかった。
光と影のコントラストの激しいこの場所で格別に目立つ白をまとった男が、肩で風を切って向かってくる。
その純白の帆船のごとく清廉で威厳に満ちた姿に、周りの人波も自然と割れる。

「笠松センパイ!」
「やっぱりお前か」

あまり手を入れないのであろう太く黒々とした眉毛に大きく鋭いブルーグレイの双眸が特徴的なその男性は、何を隠そう檻における黄瀬の剣術の師匠……とまではいかないが、定期的に稽古をつけてくれていた笠松幸男その人だった。

「元気してたのかよ?」
「ハイ! 今は新しいご主人様のところで……ホラ!」

微笑んで首輪に下がるチャームを示せば、笠松の目がまんまるに見開かれた。

「青峰――? って、あの『青峰』か?」

彼が難しい顔をしてさも胡乱げに声を上げたところで、黒い影が二人を覆う。

「どの、スかね」
「あっ、ご、ご主人様!」
「気付かずに置いてくトコだったろうが黄瀬。驚かせんな」
「す、スンマセン……」

耳と尾をぺそっと寝かせて肩を落とす黄瀬を横目に、笠松はやっぱりかと片眉を跳ね上げた。

「よりにもよってお前が黄瀬の新しい主人とはな。相も変わらずあの躾のなってない荒くれ共の巣窟で好き勝手やってんのか、青峰中尉」
「おーおーやってんぜ。そっちこそどうした。笠松少佐殿にゃあこんな下品で野蛮な陸(おか)なんざ、大層居心地が悪ィだろうに」

挨拶代わりにいきなりの抜刀・鍔迫り合いをかますような、剣呑極まりないやりとりである。

「ご主人様と笠松センパイ……知り合いなんスか!?」
「……知り合いも何も」
「合同演習だの剣術大会だの球技大会だの、海と陸とはいつだって大喧嘩だ。まァ、俺としちゃあ馬鹿馬鹿しいとは思うがな、どうも陸の脳筋どもはこの制服を見るなり突っかかってきやがる。牛だってもうちっとは考えがあるだろうに」

この国の海を護る男の証――海軍の白い制服を着た笠松は、そんな風に言って嗤った。舌戦ではどうやら彼に分があるらしい。青峰は舌打ちをすると、黄瀬の方に視線を移した。

「笠松“先輩”って……お前の方こそ知り合いなのかよ、黄瀬」
「ハイ、その、檻にいる時に剣を教えてくれてたのがセンパイで。剣術のクラスは毎週、海軍の人が入れ替わりで稽古つけに来てくれてたんス! 先生なんてガラじゃねーって言うから、センパイ、にしたんスよ。ねー、センパイ!」
「――ふーん……」

納得がいったようないってないような青峰と、その横で尾っぽを振りつつにこにこしている黄瀬とを見比べた笠松は、軽く肩をそびやかす。

「――……お前と黄瀬が、主人と奴隷……ねえ」
「なんだよ」
「なんでも。とにかく無事でやってんならいい。黄瀬、腕どーしたんだか知んねェが、治るまで無茶すんじゃねえぞ」
「う、ば、バレて……ました?」
「バレバレだ舐めんな」
「あでっ! ヒデーっスよせんぱぁい……」

バシンと背中を平手で叩かれて、でも過去何発となく食らったそれよりは随分とソフトだななどと暢気に思う黄瀬とは裏腹に、青峰の機嫌は降下の一途をたどっているように見える。

「もういい、行くぞ。黄瀬」
「えっ、ちょっ、まま、待って下さいご主人様!」

笠松へは一言どころか一瞥もくれようとしない主人に驚いた黄瀬は、「スンマセン失礼します!」と頭を下げてその背を追おうとした。

(あれ……なんか――)

ぼわり、耳が詰まるような、体の周りに一枚膜が張ったような感覚とともに、どっと冷や汗が噴き出す。
夏だ。夜とはいえ、あたりは祭りの熱気と湿気に包まれていて、間違っても寒いなんていうことはありえない。
なのに四肢の先から血の気が失せ、吐き気がこみ上げてくる。

「う……――」

足が動かない。

(待って)

眩暈。視界が狭まり、黒く染まる。

(いかな……で、ごしゅじんさま……)

広い背中が遠ざかってしまう。

「黄瀬!」

駆け寄ってくる白い影を見たが最後――黄瀬はその場に崩れ落ちた。



さらさらと風が吹く。
やさしいにおいが鼻をくすぐる。
水底から昇るように、意識はゆっくり浮上して――目覚めた先は青色だった。

「――…………、」

とっさに頭が働かず、空白になる。
わかるのは視界に灯る淡い光と、頬を撫でる風の感触だけ。

(オレ…………?)

泥のような眠気は全身に回っていて、ちょっとでも気を緩めればまたあっという間に眠りの海に沈んでしまうことを予感させる。
そんな中、ゆうらり、ゆうらり、涼しい風が吹いてくるのがどうしても気になって――黄瀬は定まらない焦点をなんとか引き絞り、そちらの方を窺った。

青みがかった夜の闇の中、瞳に星を宿した男がゆっくりと団扇を動かしている。
根気よく、飽きもせず、ずっと――ずっと。
あくびを噛み殺そうとしているのだろうか、唇がきゅっと引き結ばれて下顎が小刻みに震えるのがわかった。

(――……、……ごしゅじん――さま……)

先ほどから夢うつつの中感じていた風は、きっとこれなのだ。そう思った途端、覚醒する。

(そうだ、オレ……お祭りで倒れて……それから――)

「――しゅじ、……さま」
「黄瀬?」

ぴたりと風が止む。衣擦れの音がして気配が近づいて……微かにベッドが軋む音と共に、すぐ傍で声がした。

「黄瀬、大丈夫か。気分はどうだ? どっか……痛ェとこねーか」
「だいじょぶ、っス。えと、あの、おれ……?」
「軽い熱中症だろう。……俺が、稽古のあと水も飲ませず引っ張り回したから……」

額に張り付いた髪をそっと指で梳かれて、黄瀬は自分が汗をかいていたことにようやく気付いた。
静かな部屋にふたりきり。互いの呼吸音が交わりそうな距離に、心臓が落ち着きなく跳ねている。

「そ、そんな、ちが、オレ……ど、どうしようごめんなさい……。オレのせいで、ご主人様、桃井サンとせっかくお出かけだったのに、オレ、」

情けなかった。
うまくやろう役に立とうと思えば思うほど空回る。今までまともにできていたはずの、当たり前のことさえできなくなって、まるで自分がばかになってしまったようだった。
夜伽はできない。剣をとって護ることもできない。いつだってなんだってもらってばかり。なのにあれこれと迷惑をかけて、そのうち呆れられてしまったら――

(ご主人様に、嫌われ、たら……)
「ぁ、ぅ――……ッ、」

声を失いはくはくと口を動かして目を潤ませる黄瀬に、青峰は眉根を寄せて苦笑いを返す。

「何言ってんだお前は。出かけるのは三人じゃねーと意味ねェし、大体さつきはお前と仲良くなりたかったんだよ」
「――? オレ、と?」
「スゲェ謝ってたぜ。やっと俺のお守(も)りしてくれるヤツが見つかったから、はしゃぎすぎたとかしゃしゃりすぎたとか」
「へ、お、お守り……!?」

奴隷が主に尽くすのは当然のことだ。お守りというのならば、こうして囲って贅沢な暮らしをさせてもらっている自分の方こそ守られている。
黄瀬は戸惑いに目を瞬かせて青峰を見上げる。

「……前にも言ったが、さつきと俺は幼馴染でガキの頃からの腐れ縁だ。家族みたいではある。でも、本物の家族じゃあない。
 ……――なんつったらいいか。アイツはただ心配性でお節介好きなだけだから、あまり気にするな」
「桃井サン、オレのこと怒って、ないスか?」
「んなワケねーだろ。どこに怒る要素があるんだよ。心配してた」
「ご主人様も、怒って、ない……?」
「全然、まったく、ミジンコほども怒ってねェ。……つか俺の方が主人失格だって、笠松……サン、に怒られたわ」
「えぇっ!? な、なんで!?」
「……奴隷に怪我させた上、体調不良にも気付かないなんて無責任にもほどがある――ってな」
「――!」
「言われて当然だ。お前が倒れた時、真っ先に気付いて抱き起こしたのはあの人だったしよ」

青峰の苦渋に満ちた表情に背すじが凍る。
――自分のせいで主人を辱めてしまった。それだけは無いようにと気を付けていたつもりだったのに。

「ごめ、ごめん、なさい、ご主人様……」
「だからちげーって。ほら、水飲んでおけ」

いよいよ顔色の悪くなった黄瀬を見て、青峰はサイドボードの上のグラスを取って差し出す。
横になったままでは飲みにくかろうと背に手を添えて抱き起してくれる際の、一瞬の触れ合い。それがまた黄瀬の胸をひどく苛んだ。
ほんのりとした塩の味とレモンが香る水を数口含むと、今日はこのまま休めと元のように寝かされた。先ほどは思い至らなかったが、ここは青峰のベッドだった。どいた方が良いのではないかと思うのだけれど、また急激に睡魔が襲ってくる。

「ごしゅじん、さま……、おれ、ここに、いても……い……?」

それは勿論「このベッドで眠っても大丈夫か」という意味であった。しかし多分黄瀬は、この家に、青峰の傍にいてもいいのかとも尋ねたかった。もう一度、確かめたかった。
そうとは知らず、青峰は大きく頷く。

「いい。ここで寝ろ」

頭を撫でようとしたのか、伸びてきた手はしかし黄瀬に触れることは無く、暗がりの中に消えてしまった。