→
恋する生きもの:4
「ほげっ……!」
確かについて行くとは言ったが、そして青峰も「お前には窮屈な場所」とは言っていたが、それにしたって――と黄瀬は今絶賛絶句中である。
「こ、こっか、ぼう……ボーエーショウ!」
青峰は横で呑気に「なんかそう読むと愉快な出し物みてェだな」などと笑っているから大したものだ。が、その出で立ちはいつもと違う。長い羽織を含む軍の正装に身を包んだ長身の迫力たるや、ただごとでは無い。先ほどからすれ違う女性はもちろん、男性からの視線まで一手に独り占め状態だった。
「ごごごご主人様あ。オレこんなトコロいてだいじょぶっスか? 怒られないっスか?」
なんとはなしに買ってもらったうちでも特に上等な服を選んでいたのが、せめてもの救いと言えよう。 しかしどんなにそれらしい恰好をしていても、ここは街の中心部――それどころか下手をしたら国の心臓部にさえ近い区画、獣噛など滅多に立ち入ることができない場所なのだ。 すぐそこに王宮が見える。路面は美しい石畳で覆われ、緑の樹木が立ち並んでいる。一見すると裕福な人々が暮らすところと似てはいたけれど、空気が違う。まったく違う。そびえる建物の荘厳さに、黄瀬の尾の毛はさっきからぴりぴりと逆立ちっぱなしだった。
「そう緊張するな。正式な呼び出しだ。取って食われたりはしねーよ」
巨大な両開きのドアの前に立つ二人の衛兵は青峰の顔見知りらしく、青峰が片手を挙げて「よう」と言うと、途端に姿勢をただし敬礼した。
「勤務中、異常ありません!」 「ご苦労。大臣からの呼び出しだ。コイツと二人な」 「は。伺っております。どうぞ」
青峰が封書を見せると、彼らはすぐさま扉を開いてくれた。それをくぐるとまずは一旦小部屋へと案内される。
「ではそちらの方のチェック、よろしいですか?」 「――黄瀬」 「! ハイ!」
こういった場では奴隷は簡単な身体検査を受けなければならない。少し険しい顔でこちらを窺う主に笑顔で応え、黄瀬は「よろしくお願いします」と頭を下げて前へと進み出た。
「失礼」
片方が黄瀬の手から剣を取り、もう一方は肩や懐、腰回りを軽くはたくように触る。最後に尻尾をざっと梳かれた時だけはさすがに黄瀬も小さく身震いしたが、青峰とその部下か知り合いと思われる人たちの手前、じっと奥歯を噛み締めてやり過ごした。
「結構です。ご協力感謝します」 「あ、えと、ありがとうございました」
青峰の奴隷だからなのだろうか、いかにも形式上といった感じで、あっという間に済んでしまった。
「それでは青峰様。お供にこちらを装着の上、奥へどうぞ。大臣がお待ちです」
青峰に手渡されたのは金の鎖のついた手枷。黄瀬は特に驚きも無くそれを見守っている。 人間にとって重要な――特に通常獣噛の立ち入りが制限されている区域では、これくらいが当たり前だからだ。 パーティやらなんやらでも大概そういうものは着けさせられていたし、どうもかつての主たちはやたらと黄瀬を拘束具で縛り付けることが好きだったので、哀しいかな馴染み深いくらいであった。 けれど青峰は眉をひそめて言う。
「すまねェが、少しの辛抱だ。――痛いか? 傷には響かないか?」 「平気っス!」
なんともないと繋がれた腕を持ち上げて見せると、困ったような微笑みが返ってきた。
「よし」
幾度かベルトと鎖の具合を確かめ、衛兵にこれでいいかと目配せをした青峰は、紅いカーペットの上を歩き出す。
「それより、ホントにホントにオレが一緒で大丈夫なんスか?」
手も足も戒められた状態で歩くのはそれなりに難しい。けれど黄瀬は器用に尾でもってバランスを取りながら進む。立派な調度や絵画には目もくれず、青峰の背中だけを見つめて。
「構わねーよ。……むしろお前がいなきゃ困る」 「??? でっ、でも、会うの、エライ人なんじゃないんスか?」 「まーなァ。全ての軍のボスみたいなモンだから……こン中じゃ一番エライ人だな」 「いっ、いちばんえらいひと!」 「あー、ここだ」
長い長い廊下の先、重そうな扉をゴンゴンと乱暴にノックした青峰は、先方の返答を待たずして乱暴にノブをひねり中へと踏み入った。 いつもより乱暴――というよりもどことなく怒りのこもったその仕草に、黄瀬は狐耳をぴんと立て、慌てて主のあとを追う。
「よう、久しぶりだな坊主」
広々としたデスクの向こう、窓を背に立っているのは体格の良い中年の男性だ。たくさんの勲章のついた上着は前を開けてかろうじて羽織っている体で、その下に着ている白いシャツも襟元が緩められており、そこから浅黒い肌が覗いていた。 ……その、言ってはなんだが、大臣室にいる人間にしては随分と砕けた――端的に言えばだらしない恰好をしている。 だが彼の顔を見て、黄瀬は息を呑んだ。 体つきと長身のせいだけでは無い。圧倒的な存在感と迫力、何よりその輝く星のような青い瞳に射すくめられる。
(――あ、青峰の、ご主人様……?)
顔立ちは一見そこまで似通っていない。その男性の方が青峰よりも幾らか目が大きいし、青峰の少し丸みを帯びた鼻先とは違って、鼻梁の際立った鷲鼻だった。 ただその輪郭であったり、眩しそうに寄せられた眉根であったり、それからこめかみからまなじりにかけての皺や口元などは言いようもなく似ている。よく見ると白髪交じりの短く刈り込んだ髪も深い藍色をしていた。
「――……お久しぶりです、大臣閣下」 「くは、気持ち悪い呼び方しやがって。軍では元気にやってるそうじゃねェか」 「はあ、まあ」 「相変わらず景虎ンとこの食堂に行ってるって?」 「……あのオッサン、余計なこと言いやがって」
ち、と舌打ち。
「それで? 本日はどのようなご用件でしょうか」 「お前がついに奴隷を飼ったと聞いてな」 「……どのツラ下げて言ってるんだか知りませんが、そういうことならもういいスかね。俺だってそうそうヒマじゃあないもんで」
青峰の口調はとても目上の、軍を統括するほどの位置に座している人物に向けられているとは思えないもので、ハラハラしてしまう。
「――名前は」
突然、男が黄瀬を見てそう尋ねた。
「ええっ!? あっ、おっ、オレっス……あいや、オレですかっ!? きっ、黄瀬と申します! 青峰のご主人様にはとても良くして頂いておりまスっ!」 「青峰のご主人様、か……。――すまなかったな、黄瀬。わざわざこんなところまで」 「ひぃえっ!? とっ、とんでもねっス!」
おかしい。お偉いさんの前で自己紹介することなど、そうそう珍しいことでもなかったのに。 黄瀬は裏返った声に泣きそうになりながら耳と尻尾を伏せて膝を折り、深々とお辞儀をした。 それにしても――やはり似ている。「黄瀬」と呼ばれて一層思う。咽喉奥で転がすような、低く甘いバリトン。 それから……におい。
(あったかい……日なたのにおいがする)
「わかった。結構だ。悪ィがあとはちょっとだけ別室で待っといてくれ。あー、お前頼む。黄瀬を青の間へ」 「かしこまりました」
男性が腕を広げて示した先には、いつからいたのだろうか、一人の青年が立っていた。
「オイ何考えてんだ、勝手に……!」 「こちらが呼びつけたんだから彼も客人だ。それ相応のもてなしはするし、お前との話なんてすぐ終わるさ。だろ? 坊主」 「…………ヘンなこと考えてんじゃねーだろうな」 「誓ってそれは無い。もう一度言おう。俺は黄瀬を客人として呼んだつもりだ」 「――黄瀬、すぐ行くから待ってろ」 「あ、は、ハイ。あの、失礼します!」
妙な緊張感を漂わせる二人が気になりつつも、黄瀬はその場を丁重に辞した。
黄瀬が通されたのはまさに「青の間」という名にふさわしく美しい部屋だった。 上品な空色の絨毯、目の覚めるような鮮やかな青のカーテン、そして深い藍色の生地が張られた椅子。様々な青に満ちたそこは、ほんの少しだけ青峰の寝室を思わせる。 そこでご丁寧に茶まで出してもらったのは良かったのだが、その茶のせいかそれとも緊張ゆえか尿意を催してしまった黄瀬は、しばらく悩んでから青年に手洗いの場所を尋ね、無事用を足すことに成功した。
(はあ……やってしまった……)
こういうところでは微動だにせず忠犬のように主の帰りを待っていようと思ったのに。なんとなくしょんぼりとした気分で一人部屋に戻ろうとした時だった。
「――何故、獣噛がこんなところにいる?」
飛んできた鋭い声よりも先に、黄瀬は耳ざとく扉が開く音を聞きつけ、そちらの方へと顔を向けていた。 一人の男が、黄瀬を睨んでいる。 その男は先ほど面会した男性とそう離れていない年齢で、やはり地位のある人物と思われたが、雰囲気はまるで違った。青峰似の彼はいかにも武人然とした体格と覇気に満ちた顔つきだったが、こちらはなんとなく学者肌というか、若干神経質そうな印象を受ける容貌である。こけた頬とメタルフレームの眼鏡がそう見せているのかもしれない。 どちらにしろ、彼が獣噛を良く思っていないことはその表情を見れば一目瞭然だった。
「付き添いも無し。手枷はしているな。……うん?」
つかつかと歩み寄ってきた男性は、素早く壁際へと身を引いて深くお辞儀をした黄瀬を、道具の検品でもするかのように無遠慮に、そして厳しく睨みつけ、とある一点で視線を止める。
「これは――」 「あ!」
突然首輪を掴まれ声が出てしまった。違う。掴まれたのは首輪では無く、そこに下がっているチャームだ。
「青峰……? お前、青峰の家の奴隷か」
男が黄瀬を突き放す。黄瀬は息を詰めつつも頭を下げたまま問いに答えた。
「はっ、イ――」 「大臣に呼ばれたのか」 「はい……。そうです」 「……あの方は相も変わらずだな。獣噛などを自由にうろつかせて、何かあったらどうするつもりなんだ。ただでさえ最近は派閥の溝が深くなってるというのに――」
だんだんと男の語気は険しくなってゆく。
「お前もじっとしていることさえできないのか。ここがどれほどお前にとって分不相応な場所かぐらい、わかっているだろう」
(どうしよう)
黄瀬はぼんやり立ち尽くすばかりである。この人は怒っている。怒っているのだけど、その対象は正確には<自分>じゃない。自分が何かして怒らせたのならまだやりようはある。自分が殴られれば、犯されればそれで終わるかもしれない。 でも彼はそうではなく――何かもっと大きな、茫漠としていながら入り組んだモノやヒトに対して怒りを覚えている。つまるところ八つ当たりに近いので、謝っても言い返しても、どちらにしろ火に油を注ぐ結果になるだろう。
(どうしたらいいんだっけな、)
こんな感覚は久しぶりだった。理不尽に怒りの矛先を向けられたことはいくらでもある。そのたびどうにかしてやり過ごして来た。やり過ごす術を、自分は知っていたはずだ。
――おとなになって奴隷として買い取られた初めての晩。 金糸を掴んでシーツに押し付けられ、獣じみた恰好で貫かれた。 ずっと黒子に教えてもらっていたはずだったのに、怖かった。痛かった。
――『たすけて』
そう咽喉元まで出かかった。 でも――誰に? 自分は一体、誰に助けを求めたら良いのだろう。
――『くろっ……――』
ダメだ。 彼は「良いご主人に巡り逢えると良いですね」と言ってくれた。送り出してくれた。 彼は頼るべきひとじゃない。頼って、手を伸ばして、寄りかかっていいひとじゃない。 あのひとは自分のものじゃない。
――(……ああ、いないんだ)
黄瀬はその時になってようやく気付いた。
――(オレには助けを求める相手なんて、最初から、どこにも、いないんだ)
理解してからは早かった。 助けて、と、言う相手がいないのならどうするか。助けなんか求めなければいい。当たり前だった。 結局のところは黒子に迷惑をかけないようにしようとしてもうまくいかず、何度も檻に舞い戻ってしまったけれど。 けど痛いことも苦しいことも、全部がぜんぶ自分にとっては「普通」なのだと呑み込めば、また奴隷として働けた。
だからこんな、この程度のことなら、どうということは無い。 何より今は青峰に仕えているのだ。 自分のことはこの際どうでもいい。何かの気まぐれでこの場で耳や尾を引き千切られようとも、首を刎ねられようとも、青峰にだけは迷惑をかけたらいけない。青峰だけは守らなければならない。 それが青峰大輝に飼われている獣噛、黄瀬涼太の覚悟だった。
「奴隷としての自覚が無いのか、はたまた主人の躾がよほどなっていないのか」
その言葉にぴくりと指先が引き攣る。ここで反抗的な態度に出たら全部台無しだ。矛先が主人に向かないよう、ただそれだけに集中しろ。 黄瀬は深呼吸をひとつ、更に深く頭を下げて静かに口を開く。
「――自分が至らず、申し訳ありませんでした」
男がわずかにたじろいだのがわかった。だがすぐに顎をすくわれ強引に目を合わされる。 殴られるかと思ったがそうでは無い。男はじっと黄瀬の目を覗き込んでくる。錐で通すような視線の鋭さに額へ汗が浮くのを感じ、黄瀬はとっさに顔を背けた。
「善くない目をしているな」 「…………――」
思わず睨み返しそうになるのをぐっと堪え、黄瀬は相手のつま先を見つめる。よく磨き込まれた革靴のトウを、穴が開くほど見つめ続ける。
「お前、『まっとうな生き物』になったつもりになるなよ」 「……?」
意味を量りかねる言葉に再び頭を上げると、男は柳眉をひそめて、変わらず黄瀬へ厳しいまなざしを向けていた。
「どんなに主が寛容であっても、所詮お前は獣噛の奴隷だ。同じ場所に立てたと勘違いするな」 「――――、」
何故だろう。冷たい手に心臓を下からすくい上げたられたかのようだった。ひやりとする。鼓動が速くなる。
「身の丈に合わない願望は、いずれお前の身を滅ぼすぞ」
今度は完全に何かが刺さった気がした。
「そん、な、ことは……」
無い、と言おうとしたのに、声にならない。咽喉がからからだった。体中が鈍く痛む。またあの痛みと耳鳴り。何か考えようとしているのだけれど、それを体が拒んでいる。 尻尾が力なく垂れて脚に触れる。自分の中の獣が、動物としての本能が、どうしようもない怖れを感じていることに、黄瀬はとっくに気付いていた。 でも、何を?
(オレは、何に怯えてるんだ?)
「どうかな。青峰は優しいだろう? アレは獣噛を差別しない。人と同じように扱うはずだ。それがどんなに残酷なことか気付きもせずにな」 「――っ、ご、ご主人様、は、――」
矢継ぎ早に言葉を浴びせられ、混乱の度合いが深まる。 彼が言っていることを認めたくない。聞きたくない。 でも――彼はおそらく正しい。
「勘違いをするな。お前たちは地を這う獣だ」
……何か、できないかと思っていた。 尊敬する主人の役に立てないかと思っていた。 青峰に信頼して――ほんの少しでも心を許してもらえているのではないかと、思っていた。
「どう足掻こうが、人には成り得ない」
あの家で青峰と共に過ごしていると、これまでのことがまるで何か悪い夢だったかのように、もしかしたら自分はこのまま生まれ変われるのではと思えた。 いつの日か青峰が誇れるような立派なしもべになって、ずっとその傍に、隣に――そんな風に願えたのだ。信じられたのだ。 (カン違い? ちがう、オレわかってる。オレは獣噛で、ご主人様は人間で、えらいひとで、オレの――オレのご主人様で、だから、でも、)
――自分は「普通」じゃない。 ――自分は「ヒト」じゃない。 ――自分は××××。
決意が、想いが、揺らぎそうになる。
(オレは、ご主人様と、ご主人様を――)
やっと手に入れた小さな光が、真っ黒に塗り潰されそうになる。
(ご主人様……青峰の、ご主人様)
このままでは青峰に名を与えられ、青峰のお陰で変わり(そのはずだ)、青峰と共に作り上げてきた(そのはずだ)新しい自分が、それを形作る美しい思い出たちが、ぼろぼろと砂の城のように崩れてしまう。
(――――て……)
手足が凍えるように冷たい。 頭も心も麻痺して動きを止めてしまいそうになる中、黄瀬は喘ぐように浅く息を吸い、首元のチャームを握り締めた。 ずっと自分を縛り付けていたはずの首輪。 ただの革と金属でできた、冷たい枷。 だけど、今は――
(たす、けて、)
(たすけて――ご主人様)
黄瀬は、確かにそう呼んだ。 心臓の奥。悲鳴にも似た声なき声が響き渡る。
と、黄瀬の横を風が通り抜けた。
「――それ以上はやめてもらえませんかね」
それは猛獣の唸り声。 押し殺そうとしても溢れる怒りによって奥歯ですり潰されいっそ平坦になって、奇妙に吊り上がった三日月の口から吐き出される禍々しい響き。 黄瀬は顔を上げる。 広い広い背中だった。 鼻をかすめる夏のにおい。 目の前に、追い詰められ息も絶え絶えな自分を護るようにして、青峰が立っている。
「ご、しゅじ……」 「黄瀬」
青峰は肩越しに振り返り、黄瀬の名を呼んだ。 どこか申し訳なさそうに、痛々しいほどの音で。けれどいつも通り優しく瞳を細めて。 そしてそのまますぐ正面へと向き直り、やはり聞いたこともないような冷めた声で相手に告げる。
「コイツはウチの……俺の連れです。それをつかまえてこんな場所でいびるなんざ、あんまりにも酷いんじゃないですかね、教官%a。 ――ああ、いや、随分とご出世なされたようで? 今はこっち勤めスか?」 「……青峰、」
やはり知り合い――なのだろうか。 青峰の言葉に、男性は明らかな動揺を見せた。
「アンタ達が獣噛をどう扱おうが俺にゃ関係ねェ。俺のことをどう言ったって構わねェ。 けどな、人間の、大人の、アンタ達の、くだらねェ理屈を――黄瀬に、押し付けるな」
耐え切れず熱を帯びた語尾に、短い会話は焼き切られる。
「………………」 「――行くぞ、黄瀬」 「あ、」
ぐいと腕を取られ――というよりはほとんど肩を抱かれ、黄瀬はその場をあとにした。どうやって建物を出たのかあまり記憶に無い。気が付いたら枷を外された手首を握られ、石畳の道を歩いていた。
(助けて――くれた?)
ただそのことだけが、頭の中をぐるぐる廻る。
(ご主人様がオレのこと……助けてくれた)
青峰はギリギリ黄瀬が走らずに済むくらいの足取りでずんずんと歩く。一言も喋らない。黄瀬はひたすらそれについてゆく。足元がふわふわして、雲の上でも歩いているようだった。
やがて見慣れた街並みが戻ってきた頃、
「ちょっと待ってろ」
ぽつりと呟いた主は、手をほどき黄瀬を置いて一人どこかへと行ってしまった。
「へ? っご、ご主人様!?」
ようやく我に返った黄瀬は慌てて顔を上げ、あれ、と思う。 忘れるはずも無い。ここはいつかの――青峰と初めて共に外へ出かけた時に来た屋台通りだ。 夏の遅い日没を迎えた街は、変わることなくあたたかな光に満ち溢れている。
(あっち――?)
宵闇と様々な色形の灯かりが入り混じる世界を見回し探す。 人ごみの中でも頭ひとつ抜けた長身。褐色の肌。紺青の髪。 その青が視界に入った途端、心臓がきゅっと音を立てた気がした。 黄瀬はその光景を知っている。 屋台の店主と言葉を交わし指を二本立て――やがて片手にふたつの紙包みと、今日は器用にももう一方の手で飲み物まで一緒に持ち、まっすぐに自分のもとへと戻ってくる。
「――…………」
その姿がきらきらと光って見える。 あの時と同じように。 あの時よりももっと眩しく。 青峰は黄瀬の前で立ち止まり、包みを持った片方の手をずいと突き出した。
「さ。食え」 「え……」
鼻をくすぐるたくさんのスパイスの香り。呆然と青峰を見上げたままでいると、彼は不思議そうに首を傾げて「どうした?」と尋ねてくる。
「ほら」
大きな手が揺れる。 黄瀬は温かい包みを受け取り、もう一度青峰を見やる。すると青峰は合点がいったように唇の端を吊り上げ、自分の紙包みを手早く剥いてがぶりと中身にかぶりついた。 食事の最初の一口は主人である青峰から。 彼がまず料理を口にしたのを見届けてから自分も食べ始めるのが、黄瀬にとって当たり前のことになっていた。 だから、食べる。 青峰に倣い、青峰と一緒に。野菜と焼きたての羊肉がはさまったサンドをかじる。トマトの酸味と玉ねぎのほのかな辛みと甘みがじわっと頬の奥へ沁みて――
「?」
ぽん、と頭に何よりも好きな感触が落ちる。
「……黄瀬、――ありがとうな」
それが何に対する礼なのか、彼は言わなかった。 けれどその瞳が、深く青くきらめく瞳を見たらわかる。
(――…………ああ)
わかって、しまった。
(そうか、そうなんだ)
音も無く生まれ落ちる。
(このひとが)
産声も無く地に落ちる。
――それはきっと、とっくの昔にこの胸にあった。
(オレは、このひとが好きなんだ)
「……おい、黄瀬……?」 「………………――――、」 「なんで泣いてる。やっぱりヒデェこと言われたのか? それともまさか、何かされたか!?」
ぶんぶん。首を横に振る。その言葉と主の焦りように、いよいよ涙が止まらなくなる。 どうしてこんなに泣けるのか。どうしてこんなに胸が痛むのか。それでいてどうしてこんなにしあわせなのか。
(オレ、ご主人様が、青峰のご主人様が――好きなんだぁ……)
人として。 主として。 男として。 あの日、この場所で、このひとだと決めた時から。
(こんなのって……ねーよ)
だがこの恋は既に亡骸と化している。
(あんまりだ)
それでも黄瀬はその破片を掻き集め、必死に胸に抱くしかない。
「黄瀬……?」 「っへ……へへっ、ご、ごめんなさいご主人様。あはっ、あ、あんま、おいしくって、ま、まえもっ、こう、こうして、買って、もらって、一緒に、食べたなって……!」
肺が引き攣るように震えて、声が小魚の尾が踊るみたいに何度も跳ねた。青峰のてのひらは更にやさしく力強く頭を往復し、時折頬に伝う涙を拭ってくれた。 見上げれば青く輝く瞳の中に自分がいる。その光景とぬくもりを自分の目に、肌に、心に焼き付けて、黄瀬は笑った。
→
|