深夜零時。屋敷は静寂に包まれている。
ついでに夕飯も買って帰ろうかと青峰は言ったが、黄瀬は作りたいメニューがあるので任せて欲しいと頼み込み、ビーフシチューを作った。夏真っ盛りには不釣り合いだけれど、どうしても作りたかったのだ。風呂を先に済ませた青峰は、うまいうまいとすごい勢いで平らげてくれた。

『おやすみなさい、ご主人様』
『ああ、おやすみ。……ゆっくり休めよ』

「色々あって疲れただろう」。そうやって獣耳ごと頭を包んで撫でてくれた手の重みやあたたかさがまだ残っているような気がして、黄瀬はそっと自分の髪に触れる。
彼が身にまとっているのは青峰に与えられた寝間着ではなく、一番最初にこの家に来た際に着用していた奴隷服だ。
部屋は綺麗に片づけられている。ベッドもきちんと整えて、本も真っ直ぐ並べ直した。

「うん、これでいいっスかね」

室内をぐるりと見回したところで、机の上に置いてあるフレームが目に留まる。

 ――「涼太」だよ。「黄瀬涼太」
 ――ご主人様スゴイ! これカッコイイ! カッコイイっス! ありがとうございます!
 ――ご主人様の名前……ご主人様は、青峰……だいきってどう書くんスか?
 ――青峰大輝、な。

そんなやりとりをしたのが、もうずっと昔のことのようだった。
この紙にしたためられた名みたいに、きっといつか隣に並べるはずだと主の背を追ってきたけれど。

「気付くの遅すぎっしょ……オレ」

ぱたん、と、そのふたつの名前が見えないように写真立てを伏せた黄瀬は、その上に青い石のはまった銀のチャームを載せてそっとドアに向かう。
だがノブを握ろうとした彼の三角耳へ思いもよらぬ音が飛び込んできた。しかもごく間近から。
ゴンゴン。重たく鈍いノックの音に、尾がふくらんでぴゃっと立つ。そんなバカな。聞こえなかった。足音など聞こえなかったのに。
焦る黄瀬のことを知ってか知らずか、ドアの向こうにいる人物は静かに呼びかけてくる。

「……黄瀬? 起きてるか?」

低くやわらかな響きはいつだってたまらなく心地良い。また胸が甘く疼く。本当にどうしてこのタイミングで――。黄瀬は唇を噛み締めて白いドアに手を当てた。

「ご主人、さま。――どうか、したんスか?」
「……いやその……お前やっぱり元気無いような気がしたからよ」
「――、だ、だいじょぶっス。ちょびっとだけ疲れたかなってだけで……。あの、ごめんなさいご主人様、オレ、うとうとしてて、カオすごいブサイクんなってるから、ここ開けられなくて……。でもありがとうございます! 明日には――……明日、には、今まで通りっスから!」

言いながら慎重に鍵を下ろす。カチンという金属音に獣耳と尾がそそけ立ったけれど、さすがに青峰の耳にまでは届かなかっただろう。

「――そうか」
「はい!」
「わかった。開けるぞ」
「えっ!?」

予想外の返答に黄瀬は目を剥く。今の会話の流れでどうやったらそうなるのか。

「鍵を開けろ。じゃねーとブチ破る」
「え、ちょ、ま、」

言っているそばからドアがガダガダと凄まじい音を立てて揺れ始めた。

「待ってご主人様オレっ……!」
「待たねェ。開けろ。俺は本気だからな。怪我したくなかったらドアから離れとけよ」

 今度はどん、という体当たりでもしたような響きと共に、真っ白な木の扉が目に見えてたわんだ。
 青峰に作ってもらった小さな城。大切な宝箱。この部屋が傷付くところなんて見たくない。

「ダメ! ダメ!」

黄瀬は半ば悲鳴のような声を上げて錠を外した。即座に青峰が入ってくる。その表情は黄瀬が予想していたどれとも違った。怒っているわけでも苛立っているわけでも無い。静かで、哀しげで、どこか思いつめた面持ちをしている。

「ごしゅじ、さま……?」

青峰は黄瀬を見てほっと息を吐いて安堵を滲ませたが、次の瞬間机の上を見て眉間に皺を寄せた。

「黄瀬、ソイツはなんだ」
「あ……」

青峰家の紋章が刻まれた銀の標。黄瀬の首に下がっているはずのそれを見て、青峰は自分の奴隷が何をしようとしているのか少なからず察したようだった。

「――なんでこんなことをする?」
「あ、ぅぁ……それは、……その――」
「俺には話せないか」
「………………」

言えるわけがない。絶対に、これだけは。
幻滅されたくない。黄瀬にとって後にも先にもたったひとり、心から主と呼べた人に、嫌われて終わりたくない。せめて別れの時まで、彼の前でだけはできた奴隷でありたかった。

(なんて、こんなコトしようとしてる奴隷が何をエラソーにって感じっスけど)

じりじりとバルコニーに面した大窓まで後ずさった黄瀬は、絞り出すような声で「ごめんなさい」と呟く。青峰が目を見開き、しまったとでも言いたげな風に顔を歪めて踏み込んで来るよりも先、淡い金の輝きはあらかじめ鍵を外してあった窓を押し開いて軽やかに手すりを飛び越えていた。

「黄瀬!」

追いすがってくる大音声に心臓が貫かれるようだったけれども、足は止めない。黄瀬は風のように駆けて夜闇に紛れ、山へと向かった。がむしゃらに走る。びゅうびゅうと空気を裂き、枝や下草で剥き出しの膝下が切れても、湿った苔で滑って転び泥まみれになっても構わず走る。
夜は怖くない。狐の獣噛である黄瀬の目にはなんだってよく見える。人が恐れて近寄らないような暗闇も、こういうところでは頼もしい味方だ。

(ずっと一人で生きてきたのに。こんなの当たり前だったのに)

走っているうちに胸の底に詰まっていた気持ちがあふれ出してくる。

(ご主人様と出逢って――独りが普通じゃなくなった)

眼前にそびえた背中。
自分を護ってくれるひとがいた。
名前を呼んでくれるひとがいた。
「黄瀬」と。あの素晴らしく徹る声が聞こえた気がして、黄瀬は手で獣耳を押さえる。

(ご主人様はやさしい)

誰にでも、分け隔てなく。

(オレはそれをひとり占めしたいって思ってたんだ)

そういう青峰が好きだと思っていながら、彼が他人のにおいをさせて帰ってきた時も、桃井と並んで歩いているのを見た時も、黄瀬は嫉妬し恐怖していた。
彼女たちは単に女性≠ニしてのくくりだけに収まらず、青峰が生きる外の世界の象徴でもあった。どんなに孤独を好もうとも、家では自分とふたりで過ごしていても、彼には地位があり、青峰という家や名があり、たくさんの誰かに慕われるだけの人柄であり――絶対に獣噛などとは相容れないニンゲン≠ネのだと。
そして何より――何より自分は――

「――ッ、――ぅぅっ、うーっ!」

黄瀬は走りながら唸る。涙が出ているのかもしれなかった。でもよくわからない。低く生えていた木の葉が頬を掠め、ちりと痛む。

「は、はっ、はあっ、ぁ……」

気が付けば神の庭の入口に辿り着いていた。闇色の帳を抜けた先には巨大な月が浮かんでいる。
黄瀬は転がるようにして水辺へと駆け寄り、乾いた咽喉を潤して顔を洗い、しまいには水の中へと身を投じた。
ついた泥や草、葉を払い、服ごと全身をそそぐ。夏といっても山の湧き水は冷たい。しかし黄瀬は何かに取りつかれたかのように体をこすり続ける。

「――きたない」

思わず声が出た。

「汚い」

すべての懼れの源が、そこにある。
どうして痴態や裸や過去の経歴を青峰に見られて「恥ずかしい」と思ったのか。
それは青峰のことが好きだったからだ。
どうして好きなひとにそれを見られて恥ずかしいのか。見られたくないと思ったのか。
――それは、自分が汚いからだ。
今までそんな風に思ったことは無かった。
一度たりとて思ったことなど無かったのに。

(最初に、抱かれた時、オレ、うれしいって――ご主人様に抱いてもらえてうれしいって、思ってた)

どんな形でも、刹那の間でも、彼と繋がれたことに悦びを感じていた。

(ご主人様のにおいを嗅いで、オレ、一人でおちんちんいじってた)

自分を迎え入れ傍にいてくれた彼に、きっとそれ以上のことを求め始めていた。

(背中、触って、抱きついて、もう一度、もう一度、)

――抱いて欲しいと、願っていた。

「オ、レ……オレっ……」

あんなにも綺麗で剛くてやさしいひとに。主人として尊敬していたはずのひとに、恋心どころかとんでもない劣情を抱いていた。

 ――『大体、汚いだろ。散々経験済みの男なんてよ』

「オレは――汚い」

今更にもほどがある。
そして今になって思い知る。
自分は手遅れなまでに汚れきった淫らな獣なのだと。
自分はきたないのだと。
夢の中にいた、たくさんの男に抱かれたどろどろの体で青峰にすがる自分。あれは他の誰でも無い、正真正銘自分そのもの。どんなに否定しようとも、ありのままの自分自身。

「……――――あ、ああ……」

会ったばかりのまったくの他人の前で裸になり、太い指で体をまさぐられ、舐められ、舐めさせられ、脚を開いて男性器や尻の穴を見せつける。教え込まれた娼婦のように淫らな手管を駆使しつつも、処女みたいに怯えて恥じらえば少しは優しくしてもらえた。よしよしお前に俺のペニスの形をしっかり覚え込ませてやるからな、と頭を撫でられた。もうどこも触れられていない場所など無いくらい、すみからすみまで犯された。
――気持ち悪かった。
だけど――普通だ。
これが、自分にとっての普通なのだ。
ずっとそう思って生きてきた。やってきた。

「最低だ……オレ」

いつか誰かに愛されたいと、愛したいと願っていたけれど。
それだけを頼りにここまで生きてきたけれど。
そもそもこんな体には、こんな生き方をしてきた自分には――

「もとから、誰かに愛される資格なんて……無いじゃないスか……」

彼の傍にいてはいけない。あの気高く美しいひとを穢してはいけない。
こうも汚い自分がその隣に並んでいいはずがない。
空を仰げば真珠玉のような月がある。煌々と照る青白い光が、いっそ刃になって自分に降り注げばいいのにと思う。
この気持ちに気が付いても、押し殺して蓋をすればどうにか今まで通りにやっていけるかもしれないと少しは考えた。
でも無理に決まっている。
ひとたび自覚してしまったのに、無かったことになどできない。摘み取ることなどできない。
間違った形で実を結んだとしても、これも確かに青峰から与えられたもので――黄瀬にとってはかけがえのない宝だった。
だからそれを手に、自分は青峰の前から姿を消そう。

「さて……と」

ここは山の中腹で、端に行けば先には切り立った崖がある。石の柵なんてちょっと伸びをすれば軽く向こう側に行ける高さだ。

「……どうするっスかねえ」
「――黄瀬!」
「…………え」

轟いた叫び声に驚き振り返れば、全身から湯気でも立ち昇っているような熱気を孕み、一人の男が立っている。

「ご主人様……ッ?」

ありえない。自分は全速力で駆けてきた。正真正銘の本気で走ってきた。ヒトよりも遥かに優れた身体能力。狐のそれと同じようなスピードで。
どんなに青峰がこの山を登り慣れていようとも、こうも早く、この夜道・この距離を駆け抜けて来られるはずがない。

「ふーっ……。やっぱ、ここだったか」

「ホラ」。長く浅黒い手が伸びる。「さっさと帰んぞ、黄瀬」

「…………――――」

どうして怒らないのだろう。どうして自分ごときのためにここまでするのだろう。どうして奴隷一匹追いかけるために息を切らして額に汗して、引きずり戻すわけでもなく、なおもやさしく手を伸ばそうとなどするのだろう。黄瀬は半ば苛立ちさえ覚えて首を振る。

「イヤ……っス」
「あん?」
「オレはもうあの家には帰らないっス」
「…………」

青峰はごきんと首を鳴らし、「なんでだよ」と訊いた。日ごろと変わらぬ口調とは裏腹の張りつめた空気に、黄瀬は警戒の色を濃くして身構える。

「――黄瀬、俺のもとを離れるってんなら、きちんとその口で理由を言え」

深く深く切り込まれる。
青峰の目はいつだってまっすぐで、何の迷いもなく真実を見抜く。

(そうじゃない。……そうじゃあ、無いな)

彼には最初から本当のことしか見えていないのだ。だから彼の前では取り繕えない。嘘が吐けない。

 ――『オレ、ご主人様にはウソ吐かないっスよ』

(これ以上……誤魔化せない。とりつくろえない)

青峰の生き方はあまりに孤独だ。そうやってすみずみまで見えてしまう分、彼自身にも逃げ場が無い。彼はその誠実さゆえに何事にも正面から向き合って、結果そのすべてを背に負う破目になっている。

(そうだった……オレはそういうご主人様が、好きで、好きで――)

やさしく不器用で、でもどこまでも真っ直ぐな彼だからこそ、ついてゆこうと決めた。
ならせめて自分も――最後くらいは。

「――はじめて……」
「うん?」
「はじめて……だったんス」

青い瞳がじっと黄瀬を見つめている。

「外でご飯買ってもらって、食べたの、ご主人様がはじめてだったんス……」
「うん」
「あんな風に頭撫でてもらったの、はじめてだったんスっ」
「そうか」
「誰かとただ並んで眠ったの、はじめてだったんス!」
「ああ」
「ご主人様、オレの尻尾すごく丁寧にブラッシングしてくれた。おうどん食べに連れてってくれて、剣のお稽古してくれて、剣もくれて、怪我をしたら包帯巻いてくれて……。それからお風呂も一緒入ったし、ホタルも一緒に見た。雷鳴った時には傍にいてくれた。オレが助けてって思った時、オレのこと助けてくれた!」

次から次へと出てくる、色鮮やかで美しくしあわせな、青峰との日々。

「オレにはもったいないくらい色んなものくれて――。何よりオレに、オレの、居場所をくれた」

なにもかもが、はじめてだった。

「だからオレも何か返したいって思ってた……」

水面に映る己の姿を見て、黄瀬は拳を握りしめる。


「――オレ、ご主人様のことが好き」


黄瀬自身びっくりするほどごく自然に、それはこぼれ出た。
青峰は微動だにせず無言のままだ。

「あ、ハ、……ごめんなさい。わかってるんス。人間と獣噛、ご主人様と奴隷。住む世界が違うって。でも、そうじゃなくて……そんな綺麗なモンじゃなくて……」

これはただの好き≠カゃない。
好意や憧憬だなんて、そんな枠に収まるものじゃない。

「――……ご主人様、オレね。……ご主人様に、この体をもらって欲しかったんス」

自分勝手で、浅ましくて、みだらで、汚い。

「ご主人様のこと尊敬してた。一生ついてこうって、奴隷として仕えて尽くしていこうって思ってた。ホントのホントに、憧れてたっス。
 だけどそれ以上に、オレご主人様のことが好きでした。
 ご主人様に――恋してました」

それでいて誇らしくて、しあわせで、夢のような。

「ごめんなさい……ご主人様っ……!」

眩しそうに目を細めていた青峰の唇が薄く開いたが、すぐに閉じる。

「――何度も、言われたっス。今までオレを飼ったヒト達にも、『主人なら誰にでも脚を開くんだろう』って、『いやらしい』って、『インラン』って、言われたっス。でも、それはオレにとって『普通』のことだった」

その時はなんとも思わなかった。なんでそんなことを言われるのか理解できなかった。
だからなんだ。オレが生きる道はこれしか無い、たったひとつの生き抜く手立てを、他人に貶められる筋合いも、馬鹿にされる筋合いも無い。そんな風に考えていた。

「なのに……今更ンなってそれがどんだけのことかわかって……。オレ、こわくなっちゃった……。もう数えきれないほど色んなひとに抱かれてきたのに……。今になって……。今になって怖いって……! アハハ……まじでウケるっスよ!」

青峰と出逢い、彼に仕え、寝食を共にし、生きる歓びをはじめて知ったと同時に。
気付いてしまった。知ってしまった。

「黄瀬――」

青峰がきつく眉根を寄せている。
ああ、またそんな顔をさせちゃって――そう思うけれど。

「――そ、なんスよね、みんなは、オレみたいなの、汚いって、思うんスよね」

金と引き換えに人に買われ、毎日抱かれて、それを繰り返し生きて来た。
そんなのは当たり前の日常だった。ずっと普通だと思っていた。
でも、決して普通なんかじゃなかった。ヒトにとっては異常なことだった。汚いことだった。
たとえそれが獣噛として唯一この世で生き抜く術だったとしても、他の生き方が許されないゆえに進んだ道だったとしても、世界は自分を汚いと指差すのだ。
事実、汚い。夢の中で見た自分は、どうしようもなく醜く汚れきっていた。
どうしてそんな簡単なことにさえ、今まで気付かなかったのだろう。
思い返せば黒子だって、何度となく警告してくれていた。

――『だから黄瀬君、君が心から求めたひとに、決してこれを使ってはいけません』

最初に青峰に抱かれた時、「このことを言われていたのだ」と思ったけれど、それだけでは無かった。いや、本当に一番恐ろしいのはそれでは無かった。

――『どうか、世界を憎まないで。その、君が胸に抱いている光を失わないで下さい』

きっと黒子はいつか自分が本当に恋をして愛を望んだ時にこそ、こうして後悔をするのだと知っていて、そう言った。言い続けた。
でもそんなこと、黄瀬に認識できるはずもない。愛したい愛されたいと夢見ていても、それが現実になったことなど一度も無かったのだから。
誰かを愛した瞬間に、愛される権利は永久に失われる。
だからこの恋は、始まりと終わりが同時に訪れるのだ。
どんなにまっさらな自分を青峰に捧げたいと願っても、叶わない。
何も知らない、青峰しか知らない、青峰によってのみ拓かれる自分には、どんなに努力しようとも未来永劫なり得ない。彼を好きだと気付いた時にこそ、その途方もない現実を理解できるようになるなんて、あまりにも残酷で――愚かしい。

戻れない。
やり直せない。
取り返しがつかない。
一度染まったものは、二度と真っ白にはならない。

「うああ、ああああ、あああああ」

黄瀬は水鏡に映る月を両の手で叩き壊しながら泣いた。

「ご主人様は綺麗だから、こんなオレじゃ傍にいられない! だって、だってオレは、もうどうしようもなくばっちくて! オレは、はじめてを、ご主人様からたくさんのはじめてをもらったのに……った、たくさんたくさん、はじめてをもらったのに……! オレはっ、オレには何にもあげられるものが無い……。オレにはもう……はじめてなんて――いっこも残ってないんス……!」

何を間違ったのか、どこを間違ったのか、それさえもたどれないほどに塗り潰されぐちゃぐちゃになっている醜悪な自分を、一体誰が赦して愛してくれるものか。

「ごめんなさい」――咽喉から絶叫と嗚咽があふれ出る。傷口から流れ出る血潮のように激しく熱を帯びて。
滑稽にもほどがある。
誰よりも美しく気高いたったひとりの主に、こんなにも浅ましい自分が何か捧げたいと願うだけでもおこがましいことだったのに、愛を乞うて抱いて欲しいと思っていたなんて、これはもう裏切りだ。ただ純粋に自分が仕えることを認めてくれた青峰への、とてつもない背信行為だ。

「汚くなんかねーよ」

ようやく発せられた青峰の声はおそろしく低く静かだった。
一息で水面を、暴れ狂う黄瀬の胸の嵐をなぎ払う。
もう一度、黄瀬の目の前に丸い月が浮かび上がった。

「嘘だ」

絶望に蝕まれかけた泣き笑いが夜風に吹かれて宙を舞う。

「だって、オレ、したっス。いっぱい、した。いっぱいいっぱいいっぱいした……」

青峰ではないひとと。
青峰ではないひとに。
数えきれないほど抱かれてきた。

「この、何年間か。ずっと……毎日、毎日、毎日毎日毎日毎日――」
「………………」
「色んなご主人に飼われて……みんな、みんなセックスした……。おちんちん舐めて、しゃぶって。みんな上手だって褒めてくれた……! いっ、いれると、気持ちいいって、お尻が裂けて血が出ても、誰もやめてくれなくて……子どもできなくて便利だって、おなかの中ぐちゃぐちゃになるまで精液かけられた……! 鎖に繋がれて縛られて玩具で一日中あちこちいじられることなんてよくよくあったし、お客様を愉しませなさいって言われてたくさんのヒトの前で恥ずかしいコトして見せたことだってある! ソレが使えるのかどうか試してやるって言われて女の人と――「黄瀬」

鋭い声音にびくりと尾が跳ねる。黄瀬は涙で濁ったうつろなまなざしで主を見た。
いっそこのまま青峰の手に、言葉によって糾弾され断罪されるのならば、もう何の悔いも無い。
汚らわしい。やっぱりお前は根っから相容れない生き物だと。はっきり言ってくれさえすれば、もう二度と夢など見ずにいられる。諦められる。

「それでお前が楽になるならいくらでも言え。続けろ。吐き出せ。
 でも、お前がそれで苦しむのなら――傷付くのなら、やめてくれ」
「――――なん、で……? なんで、ご主人様、怒らないんスか。あの時は、あの時は怒ったじゃないスか!」

懸命に閨へと誘う黄瀬を、青峰は冷たく見下ろした。あの目は明らかに怒っていた。同時に何かに苦しんでもいた。

「……あれは、違う。あれは俺が、ただ、俺が悪いんだ。お前は何も悪くない」

黄瀬は怯えたように一度首を振る。

「そんなわけない。悪いのはオレっス。当たり前っス……ご主人様がオレのこと汚いって思うなんて……」
「だから汚くねーっつってんだろ」
「違う! 汚い! オレと一緒にいたら、ご主人様汚れちゃう……。ご主人様はこんなに、こんなに綺麗なのに……!」

月光を浴びてたたずむ姿の、なんと潔いことだろう。
出逢った瞬間、目を奪われた。その澄み渡った瑠璃の瞳に捕われた。素晴らしい風貌だけではなく、人を遠ざけるような素振りをするくせにどこか寂しげなところや、不意に見せる優しさや、見事な剣さばきや――見るもの触れるものすべてに惹かれた。

(だって、そうだろう)

こんなひと、好きにならないわけが無い。
恋に落ちないはずが無い。

「ご主人様が好きだからこそ、オレはオレがご主人様の傍にいることが許せない。自分が許せねーんスよ!」
「……そうか」

ふ、と溜息を吐き、青峰が空を見上げる。

「そうだな」

ようやっとわかってくれたのだ。黄瀬はなぜだか泣きたい気持ちになった。
これで青峰は自分を手放して、新しく出来た奴隷を買うだろう。……ただこれまであまり奴隷を飼いたがらなかった人なので、もしかしたらまた一人に戻ってしまうのかもしれない。そう思うと少しだけ哀しい。

「お前はそうやって全部呑み込んで来たんだな。
 ――そうやって必死に痛みに慣れて、平気だって笑って、それが普通だって思い込んで」

……思い込む?
否、思っている。思っていたから、こうなった。

「普通、っス。それがオレの、普通だったんス」
「黄瀬」
「?」
「本当にそう思ってたら、お前はここまで辿り着いてねーよ。お前、諦めなかったじゃねーか。限られたお前の生きる道を懸命に……誇りを持って生きて来た。たった一人――たった一人でだ」

青峰はもどかしげに頭を掻きむしり、一旦顔を伏せる。

「お前が言うようにそれを『普通』だって思ってたんなら、もっと楽な方法だっていっぱいあったはずなんだよ。もうとっくに諦めてたはずなんだよ。でも黄瀬、お前はそれをしなかった。夢も希望も自分も捨てずに、オレんとこまで来たんだろ」

(――……そう、だ)

この心だけは喪くしたくなかった。いつか逢えると信じていた。自分にとってのたったひとり。どんな時でもそれを頼りに。それが、それだけが、その希望が、願いが、光が、自分を生かし続けた。
そこで青峰の方を窺って、黄瀬は思わず目を見開く。
彼は笑っていた。ほんのわずか面映ゆげに、少年のような顔で笑っていた。

「俺な、お前を初めて見た時、こんな綺麗な生きものがこの世にいるのかって思った」
「え? え?」
「キラキラしてて壊れそうで……触るのが怖かったよ。俺なんかが触れたら粉々になっちまいそうで」

なぜ。なぜ青峰がそんなことを言うのだろう。自分はとても頑丈なのだ。乱暴に扱っても大丈夫な、獣噛の奴隷なのだ。そして何もできない、何も捧げられない、使い古しなのだ。それを――なぜ。

「お前が自分のことそういう風に思うのは……仕方のないことなんだろう。お前はそんだけ辛い目に遭って……ひとりぼっちで戦ってきたんだ。俺がどんなこと言っても、お前がそう感じたのを消せるワケじゃねェ。嘘になるわけじゃねェ。だけどな、黄瀬――」

澄み渡る青の双眸が、ただひとつ金を射る。


「俺は、お前が好きだ」


あまりのことに、黄瀬の耳はそれを音として拾ったきり、頭に届けることを忘れてしまった。

「は、ぅ、ぇ、」

そのうち体の至るところが震えだす。

「――好き?」

断線した回路が繋がり、でも未だに消化できぬまま、黄瀬は呆然と反芻する。

「おう」

深く首肯した青峰は、
「今ここにいるお前も、ここに辿り着くまでに頑張った昔のお前も、全部まとめて。俺はお前を愛してんだよ」

臆面もなくそう告げた。

「――――――うそ……」

ほとんど反射に近い否定だった。冷えていた四肢がじわじわと熱を持つ。自分は壊れてしまったのだろうか。青峰のことを思うあまり、幻でも見ているのだろうか。それともさっき崖の方を見た時既に自分はその向こうへと身を投げていて、ここはもしかして天国だったりするんだろうか。

「お、オレ、獣噛っス。ご主人様の奴隷っス」
「知ってる」
「ご主人様がはじめてじゃない。汚い、お古の愛玩奴隷なんスよ?」
「そういう言い方すんな。はじめてなんて、これからだってたくさんある」
「う、ご、ご主人様にはもっとずっとふさわしいヒトがいるっス!」
「それを決めるのは俺だ」

青峰が一歩前へ出る。その足元には夜だというのに花が咲いていた。月見草だろう。色が黄色いので、多分本当の名前は待宵草だ。見当違いにそんなことを考えたのは現実逃避にも似た感覚だったのかもしれない。

「黄瀬」

引き寄せるような調子で呼ばれ目が眩む。黄瀬はあとじさりながら小刻みに首を振った。

「やめてご主人様。ダメ、ダメっス。ダメ、オレを、オレなんか、を……」

うろたえる黄瀬のことなどお構いなしに、青峰は一直線に向かってくる。そして何のためらいも無しに水中へと足を沈めた。
飛沫が月明かりに照らされ、星屑のように散る。
光が降る。
美しい光。
黄瀬は耳を横に寝かせ更に吠える。

「来なっ、来ないでください! な、なんで、そんなこと言うの? なんで、なんで? オレ、――やだ、やだよぅご主人様」

体がまるで動かない。いけないと思うのに、それ以外の全部が青峰の方へ行こうとする。

「あ!」

手をとられ、ついに黄瀬は青峰の腕の中に収まった。

「ご、ごしゅ、ごしゅじ……さま……っ……」

月を、星を、太陽を、射落としたようだった。
とてつもない罪を犯していると、そうわかっている。
あの美しく光り輝くてっぺんの青。
それを卑しい自分が引きずりおろし、泥まみれにしてしまう。
だというのに――嬉しくて泣きそうだ。

「やっと掴まえた」

耳元に落ちた囁きに黄瀬はひくりと咽喉を鳴らした。

「黄瀬」

目が合っただけでもう駄目だ。一気に視界が曇る。すると青峰はいつものように頭に手を置き撫でてくれる。
その感触に、こんなことがあるはずがないと頑なに拒み続けていた何かが崩壊した。

「好きなんだ。だから――傍に、傍にいろ」

黒子に連れられ青峰邸を訪れた日から今この瞬間までの感情と記憶が、濁流のごとく一気に押し寄せ、涙となって流れ出す。

「――……ごしゅじんさま、あおみねの、ごしゅじんさま」
「ああ」
「おれ、おれ、ごしゅじんさまと、いっしょ、いて、いい?」
「ああ。――いて欲しい」
「あの家に、いても、いい?」
「もちろんだ」
「ごしゅじんさまのこと、これからも、好きで、いて、いい?」

最後の問いに、青峰は目を瞬かせた。

「いてくれよ。黄瀬」

ふわりとくちびるにぬくもりが降ってくる。黄瀬の脳みそはとっくに許容量を超えほぼ思考を放棄しているような状態だったが、やはり青峰とキスをしているのだとわかるまでたっぷり数十秒はかかった。

「ん、んっ」

幾度も幾度もくちびるをやわらかく押し当てられる。下唇を食んで戯れに引かれたり、舌先で歯列をなぞられたりすると全身からちからが抜ける。

(ごしゅじんさま、なんだ。おれ、ごしゅじんさまと、キス、してるんだ)

その事実だけで身も心もとろけてしまいそうだ。

「は、ぅ……」

やがて薄く開いた口の中へと舌が忍び込み、粘膜同士が触れ合う。強烈な刺激だった。黄瀬は下肢を震わせ、ますます大粒の涙をこぼした。

「んん――!」

片方の手で力強く腰を抱き寄せられ、ぐっと体が密着する。そのまま逆の手で髪や耳を撫でられればひとたまりもない。黄瀬はほとんど青峰に抱きかかえられるようにしてくちづけを受けていた。

「黄瀬」
「――っス」
「怖く……ないか?」
「へ? な、なにが、スか?」

突然の問いに目を瞠る黄瀬に対し、青峰は若干伏し目がちに唇を尖らせて言う。

「俺、ひでぇ抱き方しただろう」
「えっ? ぁ、あ、いえっ……!」
「お前は主従の契約を結んで以来ずっと俺に尽くしてくれてたけどよ、それでもどっかビビってんだろうなって……」
「えぇっ!? そんな! そ、それはむしろオレの方が! オレの、方が……」

青峰が夜の奉仕を拒み、時おり自分に触れることを躊躇するのは、あの晩の――自分のせいだと思っていた。

「ご主人様、こういうの嫌いじゃ、ない……?」

おそるおそる尋ねると、さっきまでの情熱的なものとはまた違った、ただそっと触れるだけのやわらかいキスが頬に落ちてくる。

「嫌いなワケねーだろ。俺はその……最初がアレだったから、必要以上になるべく触んねェようにって……いや、そっか……お前、そうだったのか」

一人納得され置いてけぼりを食った気分だ。黄瀬は勇気を振り絞って青峰のおとがいに唇を押し当てる。ほとんどぶつかるような形だったけれども、青峰はやさしく微笑んで再びくちづけをくれた。

「黄瀬、黄瀬」
「んぅっ、く、ふぁ、ン、ッ――」

青峰の体温が沁み込んで来る。
痛くも、冷たくも、苦しくも、怖くもない。

「ずっと思ってた。こんな風にお前を抱きしめられたら――どんなにかいいだろうって」

切実で真摯な響き。

「――好きだ。大事にする。俺がお前を――今度こそ護ってやっから。
 だから、俺の恋人になってくれるか」

どんな本やお伽話も敵わない。
夢見ることさえできなかった夢のような告白に、黄瀬は尻尾をぷるぷる震わせ、その小さな金の頭がもげそうなくらい首を縦に振った。

「ご、しゅじん、さまっ、」
「ん、」
「好き――好き、好き、好きっ……! 傍にいる……オレ、これからもずっとご主人様の傍にいるっ!」

重ねる言の葉に青峰は腕・唇・声、全部を使って応えてくれる。

「黄瀬」
「はい」
「帰ろう」

「俺たちの家に帰ろう」。そう言われて黄瀬は最後にもう一回目いっぱい頷き、陽のにおいのする体に抱きついた。
それを抱き返した青峰は、まるで罪が赦されたような喜びの表情で笑ったのだった。

帰り道、黄瀬はつい数時間前までもう二度と見ることはないだろうと思っていた広い背中を前に、何度も泣きそうになった。星座図鑑に載っていたとある神話のように、青峰が振り向いた瞬間、自分は冥界へと――元いた世界へと引きずり戻されてしまうのではと不安になったが、青峰は幾たびとなく後ろを振り返って名を呼んでくれた。彼は彼で随分と心配だったようで、「お前がちゃんとついて来てるかと思って」と苦笑していた。
しばらく行くうち青峰は黄瀬の手を握り、黄瀬もためらいがちにそれを握り返した。ここは青峰の所有する土地だから。こんな夜更けなら人目に付く心配は無いから。心中そうやって言い訳を並べ立てたけれど、要するに少しでもくっついていたかったのだ。
ふたりは玄関をくぐるまで、繋いだ手を離さなかった。