山の中腹――人々に「神の庭」と呼ばれる場所から臨む景色は、いつの間にかその姿をすっかり変えていた。

「すごい……!」

黄瀬は目を見開いて感嘆の声を上げる。
眼下には黄金。
立派に実りこうべを垂れた稲穂の海は、風が通るたびきらきらと波を立てている。
夏の青々とした水田に空や夕日が映る様子もそれはそれは美しかったが、見渡す限りの金色(こんじき)もまた素晴らしい。

「な、お前の尾っぽみたいだろ」

青峰が口を開く。

「え、ええ!? オレのはあんなキレイじゃないっスよぉ」
「それは自分のだからわかんねーだけだな」

やたら誇らしげにそう言われてしまうと、黄瀬としては何も言えない。しかし尻尾の方は正直なもので、千切れんばかりの勢いで揺れるのだった。

「はっは、もっふもふしてら」

青峰はさも嬉しそうに白い歯を見せて笑い、黄瀬を自らの懐へと抱き寄せる。まるで徐々に温度を下げつつある夕暮れの空気からかばうような仕草で。

「ごしゅじん……――青峰っち」

黄瀬もそれに甘えるようにして体を預ける。
山の端に陽が沈む。最後の輝きがふつりと途絶え、淡い金は群青へと溶けてゆく。
息を呑みその光景に見入っていた二人は、やがて手を取り合って山をあとにした。



収穫祭〜The Harvest〜



   1



青峰大輝といえば、この都ではちょっとした有名人である。
少なくとも剣を取る者なら、一度はその名を耳にしたことがあるはずに違いない。
陸軍の中でもエリートのみが集められるという桐皇隊に所属する彼は、御前試合で並み居る猛者共を次々と倒し、その腕を王にまで認められたほどの使い手なのだ。

「おまけになかなかの男前ときた。しかしや桜井、アレ見てみい、アイツをどう思う」
「……すごく、爆睡してます」
「せやねぇ……」

桐皇隊隊長・今吉翔一と、隊員・桜井良の視線の先には、開いた雑誌を顔に乗せ、椅子が傾ぐほどふんぞり返った恰好のまま、ピクリとも動かない褐色の大男の姿がある。

「オーイ、青峰ェ〜」
「――……んぁ?」

意外にも呼び声は届いたようだ。「何だァ?」――大あくびと共に体を起こしうんと伸びをした青峰は、上官である今吉の方へと気だるげに視線を向けた。

「青峰テメ、マジいい加減にしろよ!」

そんな後輩の態度に、斜め前でデスクワークに励んでいた大柄な男がいい加減我慢ならんとばかりに吠えかかった。彼の名は若松と言う。多少短気なところがあるものの剣の腕はなかなかで、仁義に篤(あつ)く、隊員からも慕われている。ただその真っ直ぐさと熱血漢ぶり故に、青峰と衝突することも多かった。

「ええからええから」

しかし今吉はこれを慣れた様子でやんわりと制し、ついでに隣で謝り始めた桜井をなだめつつ話を進めた。

「そろそろ昼時やし、皆も休みにしよ。腹減ったやろ。青峰は? 報告書できたんか?」
「とっくにできてる」

ガタン、と大きな音が響く。若松が立ち上がった音だった。

「!? な、は!? おま、ウソだろ!?」
「ウソじゃねーよ。なんならお前が確認しろや」

余程の衝撃だったのか、青峰の口のきき方を注意するよりも先、若松は投げ寄越された書類に目を通し始める。

「……字ィきったねェ……」
「お前が言うな」
「ンだと!」
「若松、あんまカッカせんの」
「っ、でも、今吉サン!」
「それより青峰の報告書はどや? 字が汚いのは置いといて、他何かアカンとこあるか?」
「……いえ、ちゃんと出来上がってるっス……。珍しく」

一部で桐皇の脳筋コンビとして名を馳せている二人だが、若松の方はあくまで頭脳労働が苦手というだけで、職務に対する姿勢は実に真面目だ。
一方青峰はというと……事務仕事は大体放り出し、剣の稽古には遅刻をし、いざ外へ出動すれば姿を眩ます。出した始末書は数知れず。まさに問題児中の問題児。

――ところが最近、その問題児の様子がどうも変わりつつあるらしい。

そんな噂が隊内に留まらず、他所にも広がりを見せている。

「それは重畳。ほんなら休憩や。お疲れさん」

今吉の言葉に、隊員達は早めに訪れた昼食の時間(タイミング)を逃すまいと一斉に動き出した。途端に室内は談笑する声や物音で溢れ返る。青峰も同様に、大きな弁当包みと水筒を持って立ち上がったのだが――

「青峰、悪いけど昼メシ前にちいっとワシとお話しよか」

不運にも机の脇に歩み寄ってきた上官により、その場に縫い止められてしまった。

「は? 嫌だけど」
「ううんこの退かぬ媚びぬ省みぬストレートなお断り! な〜青峰ク〜ン。始末書マシマシサービスと、仕事終わりにワシと朝までお喋りコース、今なら好きなの選べるけどどないする〜?」
「……聞きゃいいんだろ聞きゃ」

有無を言わせぬ迫力によって椅子に圧し戻された青峰は、舌打ちをして顎をしゃくり先を促す。若松が見たら再度憤激ものの振る舞いにも、今吉は相変わらず笑みを湛えたまま、不快感一つ滲ませない。

「今度檻(ケージ)の剣術指南役に、陸軍からも一人出すことになってん。そこで桐皇隊(ウチ)からどうやっちゅうて話が来とってな。青峰、お前やってみんか」
「――……断る」

先ほどよりは若干間があったが、それでもほぼ即答だった。

「せやろな」

ところが今吉の方もすぐに頷いた。まるでその回答をあらかじめ予測していたかのように。「ほんなら若松に任せよ」。続いた呟きを、青峰はとりあえず聞かなかったことにする。

「それだけっスか」
「いや、もいっこ。お前、この間コレ出したやん」

机の上に差し出されたのは、この夏、青峰が改めて記入をし、判をついて提出した書類だった。
並ぶ住所や生年月日の文字や数字。
そこに――ひときわ空白が目に付く欄があった。

『家族・配偶者、なし。奴隷、なし。』

軍の情報どころか、役所に登録された戸籍にさえ、彼≠ヘ彼≠オか存在しない。
誰にも、何にも属さない、ただ独り。
それが少し前までの、軍人・青峰大輝≠フ身の上であった。
実際は血の繋がった父がいて、母がいて、共に健在だ。
どうしてこのようなことになったのか、誰も知らない。
青峰自身、一度も口にしたことが無い。
ただ、上官である今吉からは何度かたしなめられた。
と言っても道徳的な説教では無く、

『万が一お前が怪我負うた時や戦死した時、どないすんねん』

そういう、現実に即した疑問と、申し訳程度の忠告として。

「『黄瀬涼太』クン」

今吉が書類を指でなぞりながら読み上げる。
初めて青峰の下に書き加えられた、他人の名前。

「元気しとう?」
「……してる」
「うんうん。せやろな。あっちこっちで評判やもんな。あの$ツ峰が、奴隷を買うた――って」

含みのある言い方に、青峰は今吉を睨みつけた。

「そんな怖い顔せんの」

鷹揚に手を振りつつ今吉が笑う。

「お前さんが奴隷を飼うことに関して口出しするつもりは一切あらへん。青峰大輝の立場がどうこうちゅうんも、正直言うとワシ個人としちゃあどうでもええねん。むしろその子のお陰か、ここンとこどっかの誰かさんの遅刻が少のうなって、助かっとるくらいや」
「………………」
「けどこの件は桐皇隊だけやのうて……下手したら陸軍全体にも影響が出かねん話やからな。どうせ隠せるわけでもなし、現にこうして話は広まっとる。アレコレ騒ぎ立てられるより前にちょちょっとお披露目パーティでもして、いざという時の後ろ盾でも作っといたらええんちゃうか」

先ほど同様端から返事には期待していないのか。今吉はそれだけ言うと青峰の肩を叩き、部屋をあとにした。


「ん? 何やお前ら、メシ行っとらんかったん?」

ドアを開けてすぐ、誰もいないはずの廊下に向かって放られた今吉の呼びかけに、悲鳴じみた声を上げて柱の影から飛び出して来たのは若松と桜井だった。

「すっ、スミマセンスミマセン! ちょっと忘れ物を取りに来て……、盗み聞きするつもりは無かったんですけど、お二人が話してるのが聞こえたので――つい、隠れてしまいましたスミマセン!」
「俺は今吉サンに青峰のこと相談しようと思って待ってたっス。話の内容は聞いてねーけど……立ち聞きしたみたいんなってスンマセン」
「ちっ、違うんです! 若松さんは僕に付き合って下さっただけで! 僕のせいですスミマセン! こんなドジでスミマセン! 自分なんて藻っス……ミカヅキモ以下の存在っス!」
「いや顕微鏡の世界に迷い込まんでええから」

頭を下げる二人に、今吉は苦笑いをして肩を竦める。――と、そこでまた扉が開き、昼食セット一式を携えた青峰が勢い良く出て行った。三人の方をちらりと一瞥したものの、今はそれどころでは無いといった様子に、桜井がぽつりとこぼす。「青峰さん。機嫌良いですね」

「あれがァ?」

怪訝そうな顔をする若松に、桜井は珍しく謝りを入れることなく言葉を継いだ。

「は、ハイ。お昼ご飯、そんなに楽しみだったのかな」
「あとは――週末だからやない?」
「週末? ああ、まあ……そりゃ俺らだって明日休みだと思うとちょっと嬉しいっスからね」

不思議そうではあるもののどこか嬉しげな桜井、ようやく納得した風な若松。だが今吉だけは全てお見通しとでも言うようににんまりと笑んでいる。
外は秋晴れ。
ごくごく小さな――けれど確かな変化の兆しを誰もが感じつつ、かと言って革命的な大事件が起こるわけでも無く、桐皇隊にとっては日常(いつも)の時間が過ぎて行く。
はずだった。


「あちゃ〜……」

数十分後、今吉は目撃することになる。
トイレのドアが本来あるべき場所から大砲のごとく射出され、壁にめり込む瞬間を。

始まりは昼食後、諏佐がもたらした一報から。

――「マズイぞ今吉。公安の花宮が来てる」 



「ごちそうさん」

名残惜しげに最後の一口を飲み込んで、青峰は手を合わせた。胃袋も心も満たされて、体温がぐっと上がった気がする。
青峰が昼食に黄瀬手製の弁当を持参するようになったのは、ごく最近のことだ。寒くなって来ると昼食をとりに外へ出るのが面倒になるんだよなあ、などと考え無しにぼやいたところ黄瀬が用意してくれ、以来週に三度ほど作ってもらっている。
官舎内にも食堂はある。あるのだが――、どんな過酷な状況でも生き抜けるよう訓練を重ねた屈強な男達にさえ、「こんなところでまで質素倹約・質実剛健を謳うのはやめて欲しい。悔しいがこの一点のみに関して、我が陸軍は海軍に完敗である――」と言わしめる味ゆえ、あまり近寄りたくないのが本音であった。
店屋物とジャンクフードにまみれていた頃ならともかく、今は黄瀬の作る食事に慣れてしまっているのだから尚更だ。

『助かる――けどよ。流石にお前の仕事多すぎじゃねーか?』

そう言った青峰に、黄瀬は何度も首を振り、「朝の残りとか、簡単なものしか用意できないっスけど……」とむしろ申し訳無さそうに黄金色の耳を伏せた。
青峰としてはそんなのは全く構わない。感情の赴くままに黄瀬の頭をごしごしと撫でると、毛量を増した狐の尾がふわりと揺れ、それがまた妙に嬉しかった。
あとから知ったことだが、黄瀬は前からこの機を窺っていたらしい。
夏の終わり頃、火神が黒子に弁当を持たせていると耳にして、「いつか自分も」と思っていたのだとか。

『……ちなみに、だ。今まで通りおにぎりは……』
『青峰っちさえ良ければ、これからも作るっス!』

こうして、青峰大輝の職場における食糧事情は飛躍的改善を遂げた。朝の一仕事を終えると机で堂々と握り飯を広げ(今吉は肩をそびやかすだけで何も言わない)、昼は官舎の空き部屋でひとり静かに黄瀬の弁当を楽しむ。更にそのままうたた寝などするのは最高だ。
今日も陽射しが心地良いことだし、一眠りして行こうかと思ったのだが、その前にちょっとばかり用を足すべく入った便所で、事件は起きた。


「やあ。これはこれは、桐皇隊のエース、青峰大輝君じゃないか」

芝居めいた白々しい挨拶に対し、青峰は視線を微かに動かしただけだった。
濃く短い眉に、どことなくじっとりとした昏い印象を抱かせる鈍色の双眸――そして黒髪から突き出した大きな三角形の耳が特徴的な男が、そこに居た。

「なんだ、アンタか」

ぞんざいな応答に、彼の獣耳がピクリと動く。
黄瀬より細長い獣耳。その先端には、黒い房飾りのような毛の束が揺れている。
海の外、遥か遠くの国の草原や丘陵地帯に生息する、大型の猫に似た肉食獣。
彼――花宮真は、大変に珍しいカラカルの獣噛であった。

「相変わらず躾がなってねーな。敬語使えよ」
「あいにくとアンタに払う敬意は持ち合わせてねーんだわ」

公安局に属する彼が何故こんなところにいるのか。正式な用向きで陸軍省に来たのならば、来賓用の応接室に通されるはずであるし、その並びには此処よりよほど綺麗な手洗いもある。……まあこの調子だと、どう見ても自分が目標(ターゲット)なのだろう。だが今はそれよりも、こっち≠フ方がよほど大事だ。青峰は呑気に考えつつ便器へと向かう。
一方、花宮もそんな青峰の素振りなどお構い無しに、洗面台の鏡を向いたまま話を始めた。

「奴隷を買ったんだって?」
「――――…………」
「どういう風の吹き回しだ? お前の奴隷嫌いはこっちにまで聞こえて来るくらい有名だったのによ」
「……どうしようと俺の勝手だろ」

青峰の返事に、花宮はケタケタと笑う。

「勝手? 勝手。いい言葉だねえ! ああ確かにお前が何をしようとお前の勝手だとも。けど世の中それじゃあ通らないんだよ。知ってんだろう? 青峰のおぼっちゃん=v

ぶるり、と青峰が身を震わせたのは、あくまで生理的なものだ。

「だってなあ、まさか奴隷制度反対派の急先鋒――国防大臣殿のご子息が、この期に及んで奴隷を飼うとは、誰も思っちゃいなかっただろうさ」

実際彼の――唾液の絡んだ舌で相手を舐めしゃぶるような口調は不快だったが、青峰にとっては取るに足らない羽虫程度にしか感じられない。
何しろ父親に関することならば、そして自分の不出来ぶりに関することならば、今まで散々言われてきた。

「そのせいでお父上が今どんな窮地に立たされてるか知ってるか? 折角出そうとしてた獣噛の保護や、奴隷制度見直しの法案は見事に見送り。北方問題も相まって、次はいつ出せるかもわかりゃしねェってよ。いやいや本ッ当ニンゲンって奴はクソだぜ。ゴミクソだ。政治とはなーんの関係も無い大臣の血縁者、それも縁切ったドラ息子のお遊びを槍玉に挙げて、同族同士でネチネチブチブチ潰し合い!」

「バァ〜ッカじゃねーの?」――そう顔を歪ませる花宮の双眸は、燃え盛る憎悪に爛々と光っている。
人が憎い、世界が憎いと、呪うような爛れた光。

(……いや、違うな。コイツは弱い奴が憎いんだ)

花宮という獣噛がどういう境遇にあってどうやってこの地位にのぼりつめたか、知りたいと思ったことも無いし、これからも知ることは無い。彼と自分は全く違う生き物で、何ひとつ通じ合うものは無い。
しかし、その憎しみに、覚えはある。
青峰はうんざりした様子で肩を竦めた。もう用は済んだことだし、さっさとここから出よう。
でないと気分が悪くなりそうだった。


「だが一番の問題はその奴隷だ。よりにもよって愛玩奴隷。しかもあの、魔性の狐と名高い黄瀬と来た!」


「――――――」

そこでようやく初めて、青峰は花宮を見た。
青峰の表情には何の変化も無かったはずだ。
けれど花宮は急所を捉えたとばかりに厭らしい笑みを浮かべ、獲物の退路を絶つようにして扉の前に立ち塞がった。


「物好きだなァお前も。あんなイカれたお古の淫売をオモチャにするなんてよ」


青峰の巨躯がくるりと回転す(まわ)る。
響く轟音。木戸が吹っ飛び壁にめり込み、嵌めこまれていた硝子が砕け散る。
実に美しい回し蹴りだった。
青峰は無言のまま風通しの良くなったそこに立ち尽くす花宮へと、再び焦点を合わせた。
一歩、踏み出す。と同時に、花宮が一歩下がった。面こそなんとか平静を保っているが、彼らしからぬ動揺の色に、思わず笑いがこみ上げる。そんな覚悟もせぬまま、今の言葉を吐いたのか、と。

(下らねェ)

哀れで、愚かで、反吐が出る。
じりじりと四肢が焦げ付くような、それでいて凍えるような錯覚に、唇の端が歪に軋んで持ち上がる。

(めんどくせーから、いっそ×××ちまおうか)

花宮の右腕がほんの僅か動いた瞬間、

「そこまでにしとき、青峰」

――青峰は、冷水のような呼び声に引き止められた。
花宮の向こう、今吉が薄く目を開けて青峰を見据えている。

「げ」
「げ、とはご挨拶やなあ花宮クン。公安きっての秀才サンがこんなところで何しとんの?」

今吉はさも親しげに、何の警戒心も無い風に歩み寄って来て、花宮の右手に軽く触れた。恐らく、そこには暗器が握られていただろう。花宮は慌てて得物を引っ込めた。青峰もそれを見届けると、完全に身体を弛緩させて戦闘態勢を解く。

「頭の出来について、貴方にだけは言われたくありませんよ、今吉先輩」
「ええ〜! なんや冷たいや〜ん! ワシと花宮クンの仲やろお〜? いけずやなァ、もう」
「……クソッ。よりにもよって一番会いたくない人に……」
「んん? なんか言うた?」
「いっ、いええ何でも! ァハハ、ハハハハ」

そういえばこの二人は士官学校以前の先輩後輩だったと聞いた。花宮の様子を見れば力関係は歴然としている。貴種の猫も、桐皇の妖怪には勝てないらしい。

「青峰、今なんや失礼なこと考えへんかったか?」
「……考えてねーよ。勝手に人の心読むな気持ち悪ィ」
「ヒドッ! 気持ち悪いとか傷つくわー! ……うん、――さてと、花宮。お前さんにも仕事があるのはわかるで? けどあんまりオイタが過ぎるなら、上(かいぬし)に苦情言わんといけんくなる。
ウチの者、ウチの庭を荒らされちゃあ――桐皇隊(ウチら)かて黙っとられん」

特別凄んだ言い方でも無く、声色はあくまで朗らかだ。だからこそ恐ろしい。
花宮は「脅迫ですか? らしくも無く乱暴ですね」と言い返したものの、それが精一杯といった感じだった。最後は青峰に指を突きつけ、「これで終わったと思うんじゃねーぞ!」と見事な捨て台詞を吐いて帰って行った。
直後、今吉と同じく青峰を探し回っていた諏佐や若松や桜井が駆けつけたが、現場の惨状を見て大方を察したらしく、すぐさま各自掃除道具を手に後片付けを始めた。

「はー、いくら引き戸やからて、蹴り一発でこないに粉々になるもんかいな……。青峰ェ、後始末はきちんと自分もしいや。んで今日中に始末書書いて提出すること。終わるまで帰ったらアカン」
「なッ……――」

さすがに青峰も、ここで「なんでだよ」とは言えない。語尾は口中に飲み込まれ、低い唸り声へと変わった。

「ワシは事務所の方行って修繕の話つけてくるわ。諏佐、野次馬は適当に散らしといてくれるか」
「ああ。任せておけ」


その後、青峰は若松の怒声を浴びながらのろのろと片付けをし、午後の剣術訓練に参加した。遠巻きに見られることには慣れていたが、今日はどうにも様子がおかしい。他の隊の一人を捕まえて(半ば無理矢理)聞き出してみると、先ほどの惨事の原因は、青峰が飛来したゴキブリを一撃にて滅殺したから――というとんだ話になっていた。さすが青峰さん、虫一匹にも容赦無しなんすね! と言われて、青峰はそれこそ苦虫を噛み潰したような顔になった。日ごろの行いが物を言ったのか、たかが虫一匹にドアを粉砕するほどビビった男――にはならずに済んだらしい。
終礼が終わる頃には窓の外も闇に没し、街の灯かりが遠く輝いて見えた。日が落ちるのが早くなったな、というのが、このところ皆の終業の挨拶代わりになっている。

「なあ」
「なんや青峰。月曜提出は受け付けへんで」
「わーってるよ。だから電話だけさせてくれ。家に」

その言葉に一瞬、机の上を整頓したりコートを羽織ったりしていた男達の動きが止まったが、すぐに何事も無かったかのように動き出した。

「ええで。行ってき」

私用の電話は廊下に設置されている公衆電話を使うのが規則。けれど今吉が青峰を外へと送り出したのは、おそらく別の理由によるものだ。

「お前ら、めっちゃ聞きに行きたいっちゅう顔しとんな」
「う」
「え」

ぎくりと硬直する若松と桜井。どう返答するべきか困り顔の諏佐。

「きっとそのうち、自分から教えてくれるよって」

「それまでのんびり待っとこうや」。そう微笑んで今吉は席を立つ。「せやけど脱走防止に見張りは必要やからな」などとのたまいながら。



自分の家だというのに、電話のダイヤルを回す手つきはひどくぎこちない。
十桁の番号を何度も頭の中で反芻する。途中で今何番を回したのか、回したのが間違いなく目的の数字だったのかわからなくなって、三度ほど受話器を置いた。
まるで子供のお使いのようだと自嘲の笑みさえ漏れそうになる。
そのせいだろうか、耳元であの声が響いた瞬間、少しこめかみが痛くなった。

『はいもしもし、青峰です』

歌うような声風(こわぶり)は、彼が階段からテンポよく下りてくる時を彷彿とさせる。

「黄瀬、俺だ」
『! ごしゅじんさま!』

ほころんだのであろう唇からこぼれ出た呼び声に、青峰は深く息を吐いた。自分の家に誰かが居て、電話をかけたら名乗って応じてくれる。それが不思議で仕方ない。そしてそれが黄瀬だということがもっと不思議で仕方ない。

『ご主人様が電話なんて珍しい! え、どうしたんスか? 何かあったんスか?』

そうだ。青峰が自宅へ電話をかけることは滅多にない。その異常さに気付いたのか、それとも先ほどの主の一言で何かを察したのか、黄瀬は心配そうな声を上げた。

「……悪ィ、今日は帰りが遅くなる。先に休んどいてくれ」
『あ――そ、そうなんスね。わかりました! じゃあお夕飯はあっためて食べられるようにしておくっス! それとも軽めのお夜食用意しておいた方がいいっスか?』

一秒にも満たない沈黙と、変わることなく続く朗らかな声音は、けれど青峰の耳にあまりにも痛々しく響いた。だって間違いなく金色の尾はしゅんと垂れてしまった。耳だってきっとへにょりと横に寝てしまっている。それでも電話の向こうの主人に悟られまいと、彼は精一杯元気に喋り続ける。それが黄瀬らしい。
その黄瀬らしさが――痛ましい。

「飯は頼む。帰ったらきっと腹ペコだかんな」
『はっ、はいっ!』
「あと、……俺ンとこ使っていいぞ」
『へっ?』

休日の前の晩はふたり抱き合い、愛し合って眠る。それが恋人としての、青峰と黄瀬の習慣になっていた。
しかし黄瀬は未だに青峰の奴隷でもある。主を差し置いて、一人であの寝台を使おうとはしないだろう。
だから寂しく自室で眠ることの無いように。自分が帰ったら、愛しい黄瀬を抱きしめて眠れるように。青峰は命令ともお願いともつかぬ不器用な形で、そう伝えた。

「俺のベッドで、寝ていいから」
『――ッ、う……――っス』

黄瀬の顔が見たい。青峰は心の底から思う。頬を赤らめ尻尾を握り締める黄瀬を、撫でて抱き寄せてくちづけたい。


(早く――家に帰りてェ)


「じゃあ、な」
『はい、ご主人様。その、気をつけて。――お仕事、がんばってください』
「おう」

電話を切った青峰は、大きく一度息を吐き、重たい足取りで職務室へと戻って行った。



官舎の中は薄暗く、ひと気もないせいか随分と冷える。
青峰が始末書を書き終えたのは、あと一時間ほどで日付も変わろうという頃だった。

「……まあこれでええことにしとこ。しっかし若松も言うとったが……なんちゅうか……ウナギが阿波踊りしとるような字やな」
「どういう意味だ」
「個性的でお前らしいいう意味。さあほんなら帰ろか。送ってったる。この時間や、もう足も無いやろ」

そう言って今吉が取り出した鍵を見て、青峰は眉をひそめる。

「軍の車をンなことに使っていいのかよ」
「ワシ今晩見回り当番やさかい」
「………………」

どこまでが本当かわからないが、既にバスも電車も最終便は出た後だ。普段ならばお構い無しに自力で帰る青峰も、今日はおとなしく上官の誘いを受けることにした。それだけ疲労しているのだと、彼自身、首を縦に振ってからようやく気がついた。

(黄瀬……ちゃんと寝てっかな……)

先刻、受話器越しに聞いた黄瀬の声。それを耳にした時に覚えた、胸をかきむしりたくなるような罪悪感。
己の感情や身勝手な都合を優先したせいで、またもや大事なものを傷つけてしまったことに、青峰は深く嘆息する。

(クソ、何度同じことをやらかしゃ気が済むんだっての――)

これまでは、陰口を叩かれるのも、奇異の目で見られるのも、恐れられるのも、全部自分一人の問題――自分だけのことなのだからどうでもいいと思っていた。
親と縁を切り、友を遠ざけ、あの館に閉じ篭もることで、自分は他人と一切関係の無い独りになれる。やるべき仕事(こと)さえやっていれば、何が起ころうと誰がどうなろうと知ったことでは無いし、逆に人が自分を気にすることも無いだろう――。
そうやって外の世界に背を向け、目を閉じ、耳を塞いで生きて来た。
だが、本当はわかっている。
たとえ籍を抜こうとも、自分が父の――国防大臣の息子であるという事実は消えない。紙切れの上での関係は断てたとしても、血の繋がりと積み重ねてきた年月は消すことができない。世間においては、現在(いま)も過去(むかし)も、あの男と自分は親子なのだ。
仕事だって、どれだけ一匹狼を気取ったところで、今吉をはじめとする人々とは桐皇隊という繋がりがある。今日のいざこざとて、制止されなければどうなっていたことか。
何より今は――、

「――――…………」

車は青峰邸のある丘のふもとへとさしかかろうとしていた。急な坂道は街灯もまばらで、このまま進めば闇に吸い込まれて消えてしまいそうにさえ見える。
これは幽霊が出るだの獣が出るだの言われても仕方が無いな、と。今更ながらに青峰は思った。

「もうちょいしたら降ろせ」
「上まで行かんでええの?」
「いい」

屋敷へのルートは階段の他に車道もあるのだが、滅多に使わぬところを通る物音や車のエンジン音を、黄瀬が耳ざとく聞きつけるとも限らない。

「黄瀬クンのことやけど」

今吉の声に、早くもシートベルトを外そうとしていた青峰の手が止まる。

「何だよ」
「さっきはいらん口出してすまんかったな」
「――別に」

彼が言っているのは、昼間口にした「黄瀬のお披露目」のことであろう。軍関係者や有力者に青峰家の奴隷として黄瀬の面を通し、伝手を作っておいた方が良いのでは、という上官のアドバイスに、青峰は特段何の感想も抱かなかった。
獣噛との融和を目指そうとしている大臣の息子が、元愛玩奴隷を飼う。そのことが一部の人間にとって格好の攻撃の的になることくらい、青峰にもわかる。
今吉が部下と隊の今後を考えて、根回しをしておいた方が得策だと判断したのも、かろうじて理解はできる。
だがそれはあくまで人間側の都合であって、黄瀬の気持ちは考慮されていない(今吉は桐皇隊の隊長なのだから当然である)。
性の慰み者として権力者や富豪の家を転々としてきた黄瀬を、いくら味方になってくれるかもしれないからとはいえ、再びそういった人々の前に引きずり出すなど――青峰からしてみれば、端からありえない話だった。

「年寄りのお節介やったわ。表に出したら出したで味方も増えるが敵も増える――。人の噂も七十五日ちゅうし、この件はお前に任せよ」
「――――…………」
「今日みたいなんがしょっちゅうあっても困ってまうしな」

そこで今吉は車を急停止させ、「ドッゴーン、グワッシャーン!」と交通事故でも再現しているかのような声を上げた。実際は人身が起こした物損事故だったのだが。どちらにしろ、青峰が軍人にあるまじき破壊活動を行ってしまったことに、変わりはない。

「……悪かったよ」
「お、なんや素直やん。せやせや、それでええ。使えるモンは親でも上司でも同僚でも職場の車でも何でも使こたらええねん――あ、ただし金はアカンで――。お前が使こた分は、ワシらもお前をこき使うたるから」
「へっ、そいつは御免だぜ」

青峰は軽く笑って車を降りた。振り返ることなく手だけを上げる。それが合図かのようにすぐさまタイヤが軋む音が響き、あっという間に遠ざかっていった。



玄関に入るなり、青峰は首を傾げた。
照明があちこちついたままだ。黄瀬が言いつけ通り先に休んでいるのなら、こうも煌々と明るいのはおかしい。しかし彼の姿は見当たらず、気配もさっぱりしない。
一瞬強盗や拐かしの類でも入ったのかと思ったものの、それにしては家の中の様子も空気も、いつもと変わりが無さ過ぎる。

(やっぱもう寝た……のか?)

とにかく黄瀬を探して無事を確認しよう。ダイニングキッチンへ向かおうとした青峰だったが、ふと自室の前で足を止める。

(……そういえば)

まさか、という思いが半分。
そうであればいい、という期待が半分。
青峰は深い森に分け入るような心地で扉を開き、絨毯を踏みしめ、カーテンを払った。

――果たして、そこに黄瀬はいた。
まさに雪原の狐のように。真っ白いシーツの上、体を丸め、黄金色の尻尾を抱き枕よろしく懐へと抱え込み、その先に顔をうずめて眠っている。

ぴんと張ったシーツや普段着のままの姿を見るに、とりあえずと取り掛かったベッドメイク中に転がって、ここで眠ろうかどうしようかなどと迷っているうちに、本格的に寝入ってしまったのであろう。
微笑ましいことこの上ない。いつもならば忍び寄って抱き締めるか、ベッドにダイブしてキスの一つでも送るところだ。
だが青峰は、しばらくその場から動けなかった。

(ずっと一人で、待っていたのか)

何故そう思ったのか、青峰にもよくわからない。
ただ目の前の光景は一枚の絵にも似て、あまりにも儚く美しかった。眩暈さえ覚えるほどに。

「…………――――」

言葉にならない何かを飲み下し、恐れを振り払うように足を踏み出して、ベッド脇に辿り着く。
膝をついてその寝顔を覗き込んだところで、ようやく青峰は空白になっていた頭が動き出したのを自覚した。

「可愛い顔しちまってまあ……」

黄瀬の下がったまなじりは、まるで笑っているようだった。
その鼻が、何かを嗅ぎつけてひくひくと動く。

「ごしゅじ……んん……?」
「おー。ただいま」

額同士をくっつけて、黄瀬を真似て彼の尾の先に頬や唇を押し当てる。たっぷりと太陽の光を吸った香りとやわらかな感触が、この上なく心地良い。
黄瀬もそれに応じてかうっすらと目を開き、口元をゆるめ、青峰の方へ身を寄せてきた。

「おかーりなさ……」
「ただいま」

改めてもう一度。ここで覚醒して、驚きに飛び跳ねるのを予想していたのだが、黄瀬の眠りは思いのほか深かったようだ。
青峰は一瞬何をされたのかよくわからなかった。
頭の上にあたたかい重み。
二度三度とそれがすべる。
「よしよし」――そんな調子だった。
これは完全に寝ぼけている。もう絶対に間違いない。黄瀬は確かに時々間が抜けていて、予想もしないことをやらかすことだってあるけれど、主と奴隷という関係には今でもとても注意を払っているし、むしろ情事の最中でも無い限り積極的に触れて来ないので、もっと遠慮せず来いよと青峰の方がやきもきしているくらいなのだ。

(しかし、これは……)

ずば抜けた長身のせいで頭に触られる機会が滅多に無いとは言え、黄瀬には週に何度か洗髪を任せているのに――。
青峰は困惑に眉尻を下げ、小さく唸る。

(参った)

ただ頭を撫でられることが、こんなにも気持ち良いなんて。

あふれるような幸せだ。
さっきまでの憂鬱な気分も不安も、嘘のように霧散した。
昔は暗い家に帰るのが当たり前だった。帰って電気をつけるのも面倒だった。食事など外で済ませるか買って来たものを食べるかばかりだったし、風呂だって自分で沸かさなければいけなかったのでほとんどシャワーで済ませていた。
何より、自分は外でも家(なか)でも独りだった。
今は――、今は、黄瀬がいる。


「黄瀬……」
「はぁ〜……い……? いぃっ!?」

起床のスイッチはそこにあったらしい。黄瀬は青峰に名を呼ばれた途端、ぱちっと大きな瞳を見開いた。
その後の混乱ぶりは語るまでも無い。
ただ、今日も黄瀬がこう言って青峰を迎えたのは確かだ。

「おかえりなさい、ご主人様!」

こうして青峰の長い一日は、終わりを告げたのであった。